司馬遼太郎ファンが行くべき「築地」の歴史探訪スポット

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「築地市場」は豊洲に移転してしまいましたが、未だに築地と言えば「築地市場」のブランド・イメージが鮮やかです。しかし、「築地市場」以外にも築地の歴史には興味深いストーリーが刻まれています。特に、司馬遼太郎の歴史小説のファンにはなじみ深い歴史ストーリーがいくつかあります。

この記事では、そんな築地の歴史物語をご紹介します。

築地の起源は「本願寺」

親鸞聖人を宗祖とする「西本願寺」は京都にありますが、1617年に別院として浅草にも東本願寺が立てられました。この浅草本願寺ですが、建立の40年後に「明暦の大火」により惜しくも焼失してしまいました。

本願寺の再建を検討した際に、浅草の本願寺跡地は防火対策上も、人口過密度的にも寺の再建に適していないと判断され、新しい土地に再建することが決められました。

再建場所に決まったのは、なんと八丁堀から見える海の上でした。現在の築地エリアです。佃島の門徒が中心となり、海が埋め立てられて土地が築かれ、火災から22年後の1679年にようやく本願寺が再建されました。

「築地」の名前の由来

「築地」という地名は「地を築く」という意味からきており、本願寺再建のために埋め立て地が築かれたことがその由来となっています。ついでながら、築地に再建された本願寺は、1923年の関東大震災の際に再び焼失したため、1934年にインド風の建築物が再建され、現在に至っています。

勝海舟が教授方を務めた軍艦操練所


勝どき橋の近くにある築地中央卸売市場駐車場の場所には、かつて江戸幕府の軍艦操練所(1857年設置)がありました。司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』に登場する舞台です。

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幕臣の勝海舟も築地の軍艦操練所の頭取を務めています。軍艦操練所は、その後2度の火災で施設の大半を失い、慶応3年(1867年)に築地から浜御殿(浜離宮恩賜庭園)へと移転しています。

ついでながら、同じく司馬遼太郎の著書『坂の上の雲』の主人公、秋山真之が学んだ海軍兵学校は、現在の「国立がん研究センター」がある場所にあったそうです。文明開化の街・銀座に近い場所にあったため、次第に賑やかになっていく築地は海軍教育にとってふさわしくないとして、秋山真之の在学中に広島県江田島に移転しました。

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パークス公使が、軍艦操練所の跡地に建設した「築地ホテル館」

先ほど紹介した軍艦操練所の跡地に、「幻のホテル」とも呼ばれる外国人居留者のためのホテル「築地ホテル館」がありました。

「築地ホテル館」は、慶応4年(明治元年)に開業した「日本初の洋風ホテル」です。

イギリスのパークス公使の依頼により建設され、設計はアメリカ人のブリジェンス氏、施工は清水組(現在の清水建設)が担当しました。広さは5,354㎡で、本館は3階建て、客室は102室ありました。

竣工の翌月に元号が「明治」と改められたことから、新しい時代を象徴する東京の新名所として評判になりました。

しかしながら、完成からわずか4年足らずの明治5年に銀座の大火で焼失してしまったため「幻のホテル」とも呼ばれます。

築地の梁山泊(大隈重信の屋敷)

早稲田大学を創立したことでも有名な大隈重信は、本願寺の近く(現在の料亭「新喜楽」のある辺り)に5,000坪の土地を買い取り、豪邸を構えました。

司馬遼太郎の小説『飛ぶが如く』では、大隈を中心として、伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、山県有朋、五代友厚、前島密などが集まり、大隈屋敷で政治談議に花を咲かせたというエピソードが紹介されています。明治時代の豪傑が集まったことから、大隈屋敷は「築地の梁山泊」とも呼ばれました。

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築地とオランダのつながり

築地には、オランダと縁のある記念碑がいくつかあります。

慶應義塾発祥の地


築地の聖路加病院の近くに「慶應義塾発祥の地」という記念碑が立っています。福沢諭吉の慶応義塾大学は、安政の大獄があった年に築地鉄砲洲に作られた「蘭学所」が最初の学校でした。その跡地に立つのが、この記念碑です。

慶応義塾大学は、もともとはオランダ学を教える学校だったのです。蘭学所の設立から10年後の慶應4年、現在の浜離宮恩賜庭園近くに移転し、名前を「慶應義塾」と改めました。ついでながら、大学の名前は「慶應4年」という元号からとっています。さらに余談ながら、上野彰義隊の戦いの混乱の最中、福沢がいつもと変わらず講義をつづけた、という有名なエピソードは、この移転初年度の出来事でした。

解体新書


杉田玄白の『蘭学事始』は、読んだことが無くてもタイトルは聞いたことがあるかと思います。その中で、杉田は、前野良沢、中川淳庵とともに『ターヘル・アナトミア』を翻訳したエピソードを紹介しています。

彼らは、オランダ語の知識ゼロ、かつ、オランダ辞書なしという、恐るべき条件下でオランダの医学書を翻訳するという偉業を成し遂げました。苦心の末に日本語訳として発売されたのが『解体新書』です。

翻訳作業は、前野良沢の自宅があった築地の中津藩奥平家中屋敷(現在の聖路加国際病院があるあたり)で行われたことから、先ほどの「慶應義塾発祥の地」と並んで、「蘭学事始の地」という記念碑が立てられました。

シーボルトとイネ

筆者は、日本の陸軍を創設した大村益次郎を主人公とした司馬遼太郎の小説『花神』が好きで、これまでに3回くらい読んでいるのですが、この大村益次郎の想い人「楠本イネ」は、シーボルトの娘です。

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シーボルトは、オランダ人という名目で鎖国中の日本に来日し、長崎において西洋医学(蘭学)を広めた第一人者です(本当はドイツ人でした)。

先ほど紹介した「慶應義塾発祥の地」「蘭学事始の地」がある「あかつき公園」にはこのシーボルト先生の胸像があります。娘の「楠本イネ」が築地で産婦人科を開いていた関係で、この地に胸像が立てられました。

築地とアメリカのつながり

聖路加国際病院のある明石町一帯は、かつて「築地鉄砲洲」と呼ばれていました。幕末に日本が開国に舵を切ると、この地に外国人居留地が開設され、築地は外国人が住むことのできる数少ない場所の一つになりました。その関係で、築地にはアメリカ人宣教師が拓いたミッション系大学の発祥の地が集中しています。

立教学院発祥の地


例えば「米国聖公会」の宣教師ウィリアムズ主教は、私財を投じて築地の外国人居留地を購入し、そこに立教大学の前身である「立教学院」を建てました。立教学院ができた年は、西郷隆盛が「征韓論」で破れて、西郷をはじめとする薩摩の不平士族が下野したころのことです。

現在、聖路加病院が建っている辺りが、「立教学院発祥の地」です。さらに余談ながら、その聖路加病院も、ウィリアムズ主教と同じ「米国聖公会」出身のトイスラー博士が創立した病院です。聖路加病院ができるのは、立教学院よりも30年程後の話ですが。

明治学院大学発祥の地

現在、白金にあるミッション系の「明治学院大学」は、ヘボン式ローマ字の考案で有名なヘップバーン医師が創設した英語学校の「ヘボン塾」を起源としています。この塾は、もともと神奈川県で創設されたものでしたが、築地に移転して英語に加えて神学を教える学校になり「明治学院」と名を改めました。

青山学院記念の地

また、「米国メソジスト監督教会」の宣教師が創設した「青山学院大学」の発祥の地も築地にあります。青学は、もともと麻布にできた学校を母体としており、明治10年に築地に移転し、6年ほど築地に拠点を構えていました。明治16年に現在の場所(渋谷区)に移転しています。

他にも、いわゆる「ミッション系」学校の、女子聖学院、雙葉(ふたば)学園、関東学院、暁星学園、の発祥の地も築地にあります。

アメリカ公使館跡石標

学校とは関係ないですが、井伊直弼を脅し上げて日米修好通商条約を締結させたことで有名なハリス(初代駐日アメリカ公使)は、築地の外国人居留地に「アメリカ公使館」を建設しています(その後、赤坂に移転)。

ここでご紹介したすべての発祥の地は、聖路加病院の周辺に記念碑が残っていますので、時間のある方は散歩がてら、記念碑を探してみると面白いかもしれません。

「勝どき」は日露戦争の“英雄”乃木将軍に由来


歴史小説等を読むと、戦の場面で大将が麾下の兵にたいして「鬨をつくれ」と命令する場面が出てきます。鬨をつくる、とは士気を高める目的で多数の兵が一緒に叫ぶ声を意味し、「鯨波(げいは)」とも呼びます。「勝ち鬨」は、その名の通り、勝利の際に兵士が上げる鬨の声ということです。

現在の勝どきエリアは、明治以降の埋め立てで誕生した歴史の浅い土地です。「勝どき」という勇ましい名前は、1905年に日露戦争の“英雄”乃木将軍が難攻不落の旅順要塞を陥落させた出来事に由来しています。この年、築地と埋立地をつなぐ無料の渡し船が運航されるようになり、旅順での勝利にあやかり、「かちどきの渡し」と命名されました。

「かちどきの渡し」が運航開始してから35年。1940年に開催予定だった東京万国博覧会は、現在の晴海エリアを会場予定地としていました。万博に合わせ、築地と月島を結ぶ橋が建設されることになり、これが「勝どき橋」と命名されました。結局、日中戦争の激化により、万博は実現されることなく幻に終わりましたが、勝どき橋は予定通り1940年に完成しました。一方で、橋の完成をもって、「かちどきの渡し」はその役目を終えました。

建設当時は、隅田川を航行する船舶が多かったことから、勝どき橋は可動橋として設計されましたが、時代の流れとともに、船舶の交通量が減り、陸上交通量が増えたため、1970年に跳開が停止され、現在に至っています。

現在でも、築地側の橋のたもとには「かちどきのわたし」という記念碑が立っており、無料で見学できる「かちどき橋の資料館」というマニアックな博物館があります。



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