ブラジル奴隷反抗の象徴「パルマーレス戦争」と英雄ズンビ

ブラジル歴史

毎年11月20日は、『黒人意識の日(O Dia da Consciencia Negra)』として、サンパウロ市をはじめとする多くの市で祝日となっています。

この祝日は、ブラジルの黒人奴隷制度に徹底抗戦したブラジルの英雄、ズンビ(Zumbi)の命日に由来しています。彼がリーダーとなって行われたこの戦いは、「パルマーレス戦争(Guerra dos Palmares)」と呼ばれ、ブラジル史において重要なテーマのひとつとして取り上げられています。

アフリカ奴隷とその生活


Benedito Calixto (1853–1927)

ブラジル初期の主要産業はサトウキビの生産及びこれを加工する砂糖産業でした。ポルトガル人は、サルバドールに首都をおき、ブラジル北東部を中心として砂糖産業を発展させました。

砂糖産業は非常に労働集約的な産業だったので、ポルトガル人はコンゴやアンゴラ等の黒人をブラジルに連れてきて、砂糖産業に従事させました。


Johann Moritz Rugendas (1802–1858)

黒人奴隷は、アフリカからブラジルへの船中でその4割近くが死亡し、無事にブラジルにたどり着いた奴隷もポルトガル人によって過酷な労働を強いられました。

虐げられた奴隷の中には、主人の目を盗んで逃亡する者がいました。ポルトガル人は、奴隷が逃亡しないように監視し、逃亡奴隷を捕獲した場合には、見せしめの罰を与えました。


Johann Moritz Rugendas (1802–1858)

逃亡者のコミュニティー「キロンボ」

追跡者から逃げ切ることに成功した奴隷は、人里離れた場所に隠れ家を作って住み着くようになりました。椰子の葉などで作られた家屋からなる粗末な集落は、「モカンボ(mocambo)」と呼ばれました。

この「モカンボ」が集まり、コミュニティーの規模が大きくなった単位は「キロンボ(Quilombo)」と呼ばれました。

「キロンボ」は、もともと西アフリカンのアンゴラに住むバントゥー系民族の言語で、遊牧民が使用する「休息所」という意味の言葉でした。大航海時代には、商人が、奴隷やその他の商品を一時的に保管する場所という意味で使用されるようになりましたが、ブラジルにおいては、逃亡奴隷の形成するコミュニティーという新たな意味を持つようになりました。

ブラジル最大のキロンボ「パルマーレス」

キロンボはブラジル各地に形成されましたが、中でも例外的に規模の大きかったキロンボが「パルマーレスのキロンボ(O Quilombo dos Palmares)」でした。 このキロンボは、最大人口2万人を擁していたとも言われ、黒人奴隷からは「希望の地」として、ポルトガル人から奴隷制を脅かす脅威として認識されていました。

椰子の木が生える地「パスマーレス」

パルマーレスは、現在のアラゴアス州、当時のカピタニア「ペルナンブーコ」の「バリーガ山脈(Serra da Barriga)」と呼ばれる内陸部にありました。記録によると、1597年には既にその存在が言及されています。

パルマーレスの名前は、この地域にパルメイラス(palmeiras)、すなわち「ヤシの木」が沢山生えていたことに由来します。逃亡奴隷はこの椰子の木から食料を取る他、ヤシの葉を住居の屋根に利用していました。

バリーガ山脈

Thalita Chargel

マセイオから90kmほど内陸に行った場所にあったパルマーレス

なぜ「パルマーレス」の人口が増えたのか

パルマーレスの最大人口は2万人にも増えた、と前述したのですが、人口が増加した背景は、主にオランダ人のブラジル占領が要因としてあります。

1630年から1654年にかけて、オランダ人はペルナンブーコを中心とするブラジル北東部を占拠しました。この期間、逃亡奴隷を捜索する組織体制や監視体制に緩みが生じ、キロンボへの逃亡者が爆発的に増加しました。

人口増加によるパルマーレスの認知度向上により、新たな逃亡者が流入するという循環ができました。住民は逃亡奴隷に限らず、白人の軍脱走兵や犯罪者、ブラジル先住民、混血なども居ました。

「小アンゴラ」と呼ばれた「パルマーレス」の生活

モカンボの中で、最も力を持っていたのが「マカッコ(Macaco)」と呼ばれるモカンボでした(マカッコは「猿」という意味)。「マカッコ」は最大の人口を擁し、キロンボのリーダーが住み、パルマーレスの政治中枢機能を有するモカンボでした。キロンボ内にはヒエラルキーや行政が存在していました。

パルマーレスは、ひとつの王国のような体をなしていたことから、別名「小アンゴラ(Angola Janga)」とも呼ばれていました。

首都である「マカッコ」は、監視塔つきの大きな木の城壁で囲まれ、壁の周囲には落とし穴が張り巡らされており、キロンボ討伐に来た白人の遠征隊を苦しめました。

住人は、マンジョッカ、フェイジョン、イモ、トウモロコシ、サトウキビを栽培して生計を立てる他、生活必需品を入手するため、周辺の村と物々交換を行っていました。

このように、キロンボの住人は、周辺の地の利を知り尽くしていたことで、敵からの防衛上の優位性を有していたこと、“兵糧”は自給自足ないし物々交換で手に入れることができたことから、キロンボが長期にわたって滅ぼされることなく存続することができたのです。

ポルトガル人と逃亡奴隷の戦い

逃亡奴隷の“駆け込み寺”として認知度の高かった「パルマーレス」を破壊しようという試みは幾度となくなされました。特に、1654年にポルトガル人がオランダ人をブラジルから追い出すと、キロンボ討伐に力を入れ始めました。

パルマーレスのリーダー「ガンガ・ズンバ(Ganga Zumba)」

パルマーレスは、「ガンガ・ズンバ」と呼ばれるリーダーが33年間もの長きに渡って統治されていました(1645年~1678年)。ガンガ・ズンバ率いるパルマーレスとポルトガルの討伐軍との間には度々戦いが繰り広げられました。

ガンガ・ズンバと和平交渉

ガンガ・ズンバが統治した最後の年(1678年)に、ペルナンブーコの首脳であるペドロ・デ・アルメイダから和平交渉使節が送られてきました。

戦死者も多く出ており、戦いの中でガンガ・ズンバの2人の息子が捕虜になったことも影響したのかもしれません、ガンガ・ズンバは和平交渉のためレシーフェに出向きました。交渉の内容は、以下のようなものでした。

  • 逃亡奴隷は主人のもとに戻ること。
  • パルマーレスで生まれた者は自由人と認める。
  • 自由人には、パルマーレスを立ち退く代わりに新たな土地が与えられる。
  • 新たに逃亡奴隷をかくまうことを禁じる。

ガンガ・ズンバは、この和平協定を受け入れることを決めましたが、協定を巡り、パルマーレスにおいて内紛が勃発しました。というのも、協定ではパルマーレスで生まれた者の自由は保証していますが、逃亡奴隷は元の主人のもとに帰ることになっていたからです。

新たなるリーダー、「ズンビ」

まもなく、ガンガ・ズンバは謎の死を遂げ、ガンガ・ズンバの甥である「ズンビ(Zumbi)」が新たなリーダーになりました。ガンガ・ズンバは、ズンビに毒殺されたという説もあります。

ズンビは、ガンガ・ズンバとは反対に戦いを続ける決意を固めていました。


Elza Fiúza/ABr

「ズンビ」率いるパルマーレスは、ポルトガル人の討伐軍を幾たびも返り討ちにしました。彼の強さは半ば伝説化し、黒人たちからは「不死身のズンビ()」と神聖化されるようになりました。

戦いは1692年にペルナンブーコ当局から任命されたドミンゴス・ジョルジ・ヴェーリョ(下図)の率いる遠征隊により急展開を迎えました。ドミンゴスは、数百万人からなる軍隊を組み、中には大砲を所持する部隊もあったそうです。


Benedito Calixto (1853–1927)

1694年には、パルマーレスは実質的には滅ぼされましたが、元奴隷ゲリラによる抵抗はその後も数年間続きました。リーダーのズンビは翌年1695年まで地下活動をつづけましたが、待ち伏せしていたポルトガル人に捉えられ、殺害されました。ズンビの首級は、レシーフェの公共広場(praca publica)にさらされました。さらし首にすることで、「不死身のズンビ」ではなかったことを奴隷たちに示したのです。

ズンビの首が晒された広場

Rodrigojordy

ズンビの死から約2世紀(193年)後の1888年5月13日、ブラジルは諸外国に遅れて奴隷制度を廃止することになりました。

ズンビの命日である11月20日は、ブラジルの文化(料理、宗教、音楽など)に与えたアフリカの影響を意識する日として、『黒人意識の日(O Dia da Consciencia Negra)』が1000以上の市で祝日になっています。パルマーレスのあったアラゴアス州では、州全体として休みですが、ペルナンブーコ州では祝日としている州が無いのは、その歴史的経緯によるものかと思います。



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