サンパウロの東洋人街「リベルダージ」の地下鉄を降りて地上に出ると、隅のほうに小さな教会があります。

その名を直訳すると「絞首刑者の霊の聖十字教会(Igreja Santa Cruz das Almas dos Enforcados)」です。この一風変わった教会の成り立ちが、「リベルダージ」という地区名の由来になったと言われています。
この記事では、この小さな教会の歴史と地区名「リベルダージ」の由来についてご紹介します。
リベルダージ広場は処刑場だった
リベルダージは、サンパウロ中心部と南部のサント・アマーロを結ぶ街道沿いの土地でした。周辺には小農園が点在し、お茶栽培や牧畜業が営まれていました。
現在の「リベルダージ広場」は、かつては絞首刑広場(Largo da Forca)という通称で呼ばれていました。というのも、19世紀にこの広場に、罪人や逃亡奴隷を処刑する場所が移設されたためです。
その後、サンパウロ中心部とサント・アマーロを結ぶ市電が開通すると、リベルダージにはポルトガル移民やイタリア移民が住むようになりました。
1908年にブラジルに最初の日本人移民が到着すると、次第にリベルダージには多くの日本人移民が移り住むようになりました。すずらん型の街灯、日本庭園などが造られ、オリエンタルな雰囲気を出しています。
シャギーニャの奇跡
冒頭で、リベルダージ駅の出口のそばに教会があるという話を書きました。
この教会が建設される前、ここには「絞首刑者の霊の聖十字(Santa Cruz dos Enforcados)」と呼ばれる十字架が立てられていました。
これは、リベルダージ広場で処刑された「フランシスコ・ジョゼ・ダス・シャーガス(Francisco José das Chagas)」、通称「シャギーニャ(o Chaguinha)」の死を悼んで立てられたものでした。
給与支払遅延をめぐる暴動
ブラジル生まれの軍人シャギーニャは、軍人の給与支払遅延を訴える暴動に参加しました。
時はドン・ペドロ1世によるブラジル独立宣言(1822年)の前年で、サンパウロはポルトガルによる支配肯定派と分離独立派とで2つに分断され、緊張状態にありました。
軍人たちの暴動は政府によって抑圧され、暴動への参加者には絞首刑が命じられました。この処刑者リストには、シャギーニャも含まれていました。

シャギーニャの処刑と奇跡
処刑は現在のリベルダージ広場のある場所で実施されました。
最初の罪人が処刑され、シャギーニャの番が回ってきました。
しかし、シャギーニャの刑が執行された正にその時、縄が切れてしまい絞首刑を執行することができなくなりました。
処刑の様子を見守っていた観衆は「これは神の思し召しだ」と考え、シャギーニャの赦免を求めます。
リベルダージ!(恩赦を!)
口承によると、神の御業を目の当たりにした観衆から「リベルダージ!(恩赦を!)」という叫びが上がったといいます。このことから、「リベルダージ」という地域名が付けられたといわれています。
(シャギーニャ処刑の翌年、ドン・ペドロ一世がブラジルの独立し、ポルトガルの占領から「自由」になったことに由来するという説もあります)。
政府は観衆の意見には耳を貸さず、別の縄を用意したのですが、なんと2度目の縄も切れてしまいました。
観衆からは「奇跡だ!(Milagre)」という声が上がりました。
しかしながら、3度目の執行により、シャギーニャはこの世を去りました(3度目の失敗をしないよう、撲殺されたともいわれています)。
奇跡を信じる人々により、十字架と教会が建てられた
シャギーニャは処刑されてしまいましたが、2回も縄が切れる様子を目の当たりにした多くの観衆は「奇跡が起こった」と信じました。
奇跡を起こしたシャギーニャの死を悼み、広場には十字架が立てられ、ろうそくの灯がともされました。この灯は、風が吹いても雨が降っても消えなかったという証言もあります。
シャギーニャの死の70年後、十字架のあった場所にチャペルが建てられました。これが、冒頭で紹介した「絞首刑者の霊の聖十字教会(Igreja Santa Cruz das Almas dos Enforcados)」です。現在も多くの信者により沢山のろうそくが灯される様子を見ることができます。


リベルダージに買い出しに行く機会があれば立ち寄ってみてはいかがでしょうか?