ブラジルのベスト・ビーチリゾート10選にも入るポルト・ジ・ガリーニャス(Porto de galinhas)は、直訳すると「めんどりの港」という意味です。
この妙な名前が付けられた歴史的背景にはブラジルの砂糖産業による経済発展、および奴隷貿易が深くかかわっています。
元々はポルト・ヒッコと呼ばれていた
1500年にポルトガル人がブラジルを「発見」した時、ポルト・ジ・ガリーニャスには、インディオのカエテス族(トゥピ族の一派)が棲んでいました。ポルト・ジ・ガリーニャスはペルナンブーコのインディオの最後の集落があった場所と言われています。
16~17世紀にかけて、この地域でとれるブラジルの木を輸出していたことから、ポルト・ジ・ガリーニャスは当初はポルト・ヒッコ(Porto Rico=豊かな港)と呼ばれていました。
ブラジルの木は、赤い染料の採れる堅い木で、布を赤く染める染料に使われたり、楽器の素材として使われました。
ブラジルが「発見」された当初は、ブラジルの木以外にめぼしい資源が見当たらなかったことから、当時「サンタクルス(聖なる十字架)」
と呼ばれていたこの国は、「ブラジル」と呼ばれるようになりました。
奴隷入港地としての発展
19世紀においては、ポルト・ヒッコはアフリカから運ばれてくる奴隷の入港地としての重要性を増してきます。彼らは、当時のブラジルの主力産業であった砂糖製造のための労働力としてアフリカから運ばれてきたのです。1888年に奴隷の売買は廃止されていたため、奴隷の売買は闇取引となり、価格は吊り上げられました。
通説によると、密輸入業者達はホロホロチョウ*の籠の下に商品である奴隷を隠して奴隷を密輸入したと言われています。
*ホロホロチョウ(galinhas d’angola)は、
当時のペルナンブーコ貴族が好んで食べたと言います。
密輸業者達は、奴隷を乗せた船が港に到着すると「新しいめんどりが入港したぞ!」という符牒を使って奴隷の闇取引を行っていたのです。
このことから、ポルト・ヒッコの港はめんどりの港(Porto de galinhas)として知られるようになり、現在の名前で呼ばれるようになったのです。
その後のポルト・ジ・ガリーニャス
ポルト・ジ・ガリーニャスはその後サトウキビ農園主(セニョール・デ・エンジェーニョ)の別荘地として、その後は漁場として利用されていましたが、1960年に中所得層が、その魅力に目を付けてからは開発が進められ現在のようなブラジルでも良く知られる海水浴場の一つになりました。
現在のポルト・ジ・ガリーニャス
現在、ポルト・ジ・ガリーニャスの街中では至る所にニワトリのオブジェを見つけることができます。
その多くは、ペルナンブーコ州のアーティスト、カルカラー氏(Carcará)による作品です。ココヤシの根っこに彫刻を施し、色を塗ったカルカラー氏の作品はポルト・ジ・ガリーニャスのアイコンになっています。
スキューバダイビング屋の前にあるオブジェ