チラデンテスは実は処刑されていなかった!?歴史の真実

4月21日チラデンテスの日(Tiradentes)として、ブラジルでは祝日となります。以前に、チラデンテスが、ブラジル国民の英雄として称えられるようになった経緯を書いたのですが、詳しく調べると、実はチラデンテスは処刑されていなかったという説があることが分かりました。

チラデンテスについて知らない方はこちらの記事をご一読ください。

ブラジル独立のために戦った英雄チラデンテス
毎年4月21日は、「チラデンテスの日(Dia de Tiradentes)」としてブラジルの祝日になっています。 チラデンテスは、ポルトガルからの独立のために戦った愛国者として今もブラジル国民の英雄として称えられています。 チラデンテスと...

ミナスの陰謀

チラデンテスを首謀者とするグループが画策したミナスの陰謀(Inconfidência Mineira)というのは、ヴィラ・ヒッカ(Vila Rica)で発生しました。ヴィラ・ヒッカという町は、現代のミナスジェライス州にあるオウロプレットの昔の名前です。

ポルトガルの大地震とキント税

きっかけは、1756年にポルトガルで発生した大地震でした。大地震でリスボンの町が大きな被害を受けたのですが、ポルトガルはその費用をブラジルに負担させようとしたのです(リスボン復興税)。ポルトガルは、ブラジルにおける金の産出額に対して、5分の1税(キント税)を課していましたが、ブラジルの金の産出量が減少していたため、ポルトガルが得る税収が減少していました。

デハマ制で、ブラジル人の堪忍袋の緒が切れる

ポンバル侯爵は1765年に、キント税に加えて、年間1,500kgを最低税額として徴収することを決定しました(デハマ制)。ブラジルから取れるだけ搾り取ってしまおうとするポンバルの政策に、ヴィラ・ヒッカの住民達は不満を募らせます。

1788年、チラデンテスを首謀者としたグループにより、ポルトガルによる搾取に対して反旗を翻す計画が画策されました。彼らは、デハマ制が公示されるその日にポルトガルから着任するバルバセナ新知事を殺害し、血祭に挙げることから始める予定になっていました。

しかし、この陰謀は、密告により事前に露見してしまい計画は実行されることなく終わってしまいます。

失敗に終わったミナスの陰謀とチラデンテスの処刑

1789年、首謀者たちは全員逮捕され、首都リオデジャネイロに送還されます。3年間に及ぶ裁判の結果、陰謀の首謀者たちは国外追放の憂き目にあいました。ただ一人、チラデンテスのみはポルトガル王室からの見せしめのため1792年4月21日に絞首刑に処せられた、というのが教科書に書いてある歴史です。

処刑されずに?ポルトガルに亡命したチラデンテス

あまり知られていないことですが、チラデンテスはフリーメーソンの会員だったんですね。フリーメーソンは、1717年にロンドンで結成された国際的友愛団体で、ヒューマニズムとコスモポリタニズムを標榜した団体です。つまり、民族や国家を超越して、すべての人間が平等に立場に所属する者であるというのが基本原則だったわけです。

ミナスの陰謀のシンボル

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ミナスの陰謀で使われた赤いトライアングルのシンボルマークは、フリーメーソンのマークに由来しています。赤い色は、チラデンテスが目指した共和制を意味する色とされています。ポルトガル、英国などの君主制下では青い色だったそうです。現在、このシンボルマークはミナスジェライス州の州旗になっています。

ラテン語で「LIBERTAS QUÆ SERA TAMEN」と書いてあるのは、ポルトガル語で「Liberdade ainda que tardia」と訳されていて、「自由はまだ到来せず」という意味があります。

サーカス団員がチラデンテスの身代わりに

チラデンテスの処刑は1792年にリオデジャネイロで実施されました。ミナスの陰謀には他にも大勢の共謀者がいたのですが、彼らは国外追放されるにとどまり、チラデンテスのみが見せしめとして絞首刑に処される予定でした。

しかし、チラデンテスが処刑台に上がる前に、フリーメーソンの会員であり、サーカス団員であったイタリア人のレンゾー・オルシーニ(Renzo Orsini)がチラデンテスの代わりに処刑台に登ったという説があります。サーカス団員の最後の演技は、チラデンテスの代わりに処刑台で死ぬことだったのです。
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チラデンテスはフリーメーソンによって助け出され、処刑を免れました。彼はリスボンに亡命し1808年までそこで過ごしました。1808年にポルトガル王室はナポレオンによる侵略を受けて、植民地であったブラジルに王室を移転します。この時、チラデンテスは王室と一緒にブラジルに戻ってきました。チラデンテスは、ブラジルで妻と娘と再会し、老衰で死ぬまでブラジルで過ごしました。

共和制の誕生と、チラデンテスの再発見

1889年に帝政が終焉し、ブラジルで最初の共和制が誕生しました。それまでの間、チラデンテスの処刑は一つの「反乱の死」として理解されていました。

時の政治主導者は、共和主義のヒーローとしての存在を探し、ポルトガルからの独立を目指して戦ったチラデンテスを共和制のシンボルとして仕立て上げました。また、この時から「チラデンテスの日」が祝日として定められます。

軍事政権のもと、チラデンテスのイメージがキリストに似せられる

教科書の絵で見るチラデンテスはイエス・キリストに模したイメージとなっていて、髭と長髪が特徴になっています。1966年に当時のカステロ・ブランコ大統領がキリスト風のチラデンテスの絵を「公式」のイメージに決めたのですが、実際のチラデンテスは髭を生やしていなかったそうです。当時は、男子が髭を蓄え、髪を長髪にすることが許されていなかったといいます。

キリスト教国におけるヒーローと言えば、イエス・キリストですが、イエスに似たチラデンテスのイメージを公式と認めることで、チラデンテスの英雄化が進められたと言えます。