初めて空を飛んだブラジルの英雄、サントス・ドゥモン

「世界で初めて飛行機で空を飛んだ人は誰?」という質問を日本でしたら、「ライト兄弟」という回答が返ってくるでしょう。興味深いことに、同じ質問をブラジルすると、「ライト兄弟」ではなく「サントス・ドゥモン」というブラジル人の名前があがります。

ライト兄弟が世界最初の動力飛行に成功したのは1903年のことですが、当時、ライト兄弟の業績は世界で知られていませんでした。一方で、18歳の頃にブラジルからフランスに移住したサントス・ドゥモンは、1906年にヨーロッパで初めての動力飛行に成功しています。彼の公開飛行は「世界初の快挙」と認識され、大々的に報道されました。

ブラジル人に、「世界で初めて飛行機で空を飛んだ人はライト兄弟です」と言うと、「いや、世界初はサントス・ドゥモンさ。ライト兄弟はサントス・ドゥモンを真似たのさ」といった回答すら返ってくることがあります。

余談ですが、「世界で初めて人間が空を飛んだ」のは、ライト兄弟の偉業から120年前に遡る1783年のことです。フランスのモンゴルフィエ兄弟が発明した「気球」の公開飛昇に成功がこれに当たります。その気球に乗ったのは、モンゴルフィエ兄弟では無く、ロジエという若者でした。

飛行機の父で国民的英雄のサントス・ドゥモン


日本では、ライト兄弟に比べるとあまりにも知名度の低いサントス・ドゥモンですが、出身地ブラジルでは、「飛行機の父(pai da aviação)」と呼ばれ、アイルトン・セナやペレに並ぶ国民的英雄として人気があり、彼のことを知らない人はいません。リオデジャネイロに行ったことがある人なら、彼の名前を冠した空港を利用したことがあるかもしれません。

先日、レシフェのショッピングセンターに行った際に、この英雄の企画展を開催していました。この時に撮影した写真を利用して、サントス・ドゥモンの生涯と偉業をご紹介します。

コーヒー農園での幼少期

アルベルト・サントス・ドゥモン(Alberto Santos Dumont)は1873年7月20日にミナスジェライス州のパルミラ市の農園で生まれました。現在、パルミラ市は国民的英雄の名前をとって「サントス・ドゥモン」という名前に改名されています。父親のエンリケはフランス人移民の子孫で、母親のフランシスカはポルトガル移民の子孫でした。

サントス・ドゥモンの両親

サントス・ドゥモンの父エンリケは「コーヒーの王」と呼ばれ、サントス・ドゥモンは裕福な家庭で不自由のない幼少期を過ごしました。幼いころから機械のしくみについて強い好奇心を持つ子供だったそうです。12歳の時には父のコーヒー農園を走る機関車を運転したといいます。

サントス・ドゥモンが実際に使用したモーター

サントス・ドゥモンが18歳の時、父エンリケは落馬事故がきっかけで急死しました。莫大な遺産を相続したサントス・ドゥモンは、工学技術を学ぶため祖先の国フランスに渡りました。

気球の飛行実験

子供の頃から機械のしくみに強い関心のあったサントス・ドゥモンは、いつしか「空を飛ぶ」ことに魅了され、1897年、24歳の時に人から借りた気球で初めて空を飛びました。翌1898年には「ブラジル」という名前の一人乗りの気球を自ら製造して空を飛びました。

気球「ブラジル」

この時点では、操作性と推進力にまだ問題が有ったため、サントス・ドゥモンの関心は、操縦可能な「飛行船」に移っていきました。

飛行船の飛行実験


サントス・ドゥモンは、操縦機能を有する「飛行船」を開発し、これを「1号機」と名付けました。「1号機」は横に長い葉巻型をしていました。その翌年には、「2号機」、安定的な着陸ができるように改良を加えた「3号機」を製造し、世間の注目を浴びました。

サントス・ドゥモンによる相次ぐ成功は富豪ヘンリー・ドゥーチの関心を引き、「飛行船でエッフェル塔を往復出来た場合には、賞金として10万フランを出す」という提案を受けました。

サントス・ドゥモンは、その後も飛行船の改良を続け、1901年には「6号機」でパリ郊外サンクルーからエッフェル塔を30分以内に回る11.3kmの挑戦に見事成功し、ドゥーチ賞を獲得しました。

1902年、彼が29歳の時、モナコの王子アルベルト1世は、サントス・ドゥモンの挑戦を支援するため航空格納庫を彼に寄付しました。多くの人々の支援を受けて、サントス・ドゥモンは飛行機の改良を続けます。「11号機」には2つのモーターと翼のついたモデルを開発しました。

同じ年、米国に旅行した際には、トーマス・エジソンと時の大統領ルーズベルトにも会っています。

1906年、サントス・ドゥモンが33歳の時に製造した「14号機(改)」は、ヨーロッパで初めての動力飛行機で60メートルもの距離を飛行することに成功しました。新聞各社は歴史的快挙として競って彼の成功を報道しました。この成功で、サントス・ドゥモンはArchdeacon賞を受賞し、その賞金は彼のサポートチームとパリ市内の貧しい人々に配られたと言います。

歴史にのこる「14号機(改)」に到達するまでに、サントス・ドゥモンが発明した気球と飛行船の変遷はイラストで示したこちらのサイトが分かりやすいです。

1909年には、「ドゥモワゼル(Demoiselle)」と名付けた高翼単葉機「19号機」「20号機」を開発。ドゥモワゼルの機体には竹が利用されており、サントス・ドゥモンが手がけた中で最良の飛行機と評価されています。サントス・ドゥモンはその後も「22号機」まで改良を続けました。

世界の賞賛、ブラジルでは国民的英雄に

サントス・ドゥモンは、ヨーロッパ及び米国で賞賛を受け、特に故郷ブラジルでは国民的英雄としての扱いを受けました。サントス・ドゥモンは、自ら設計した飛行機の特許に無頓着であったため、その後、彼の業績は他の技術者によって精度を高められました。

第一次世界大戦の勃発と失意

1909年、サントス・ドゥモンが36歳の時に彼は健康上の問題を理由に、最後の飛行機を製造して、アトリエを閉鎖することにしました。その5年後の1914年、ドイツ軍がフランスに侵入し、第一次世界大戦がはじまりました。この時、自らが開発した飛行機が軍事用に使用されるのをみたサントス・ドゥモンは、これに失望しました。

翌1915年、サントス・ドゥモンは失意の中、健康上の理由により故郷のブラジルに帰ることを決めました。

サントス・ドゥモンが愛用していたパナマ帽
彼は伊達男としても有名でした。

平和主義者の絶望と自殺


1932年、ブラジルで立憲革命が起こり、サンパウロ州がジュトゥリオ・バルガス政権に反旗を翻すと、政権側は軍用機で反乱を治めようとしました。平和主義者のサントス・ドゥモンは、自身の発明した飛行機が戦争のために利用されることにひどく衝撃を受け、59歳の時に首をつって自殺しました。

サントス・ドゥモンの心臓

1932年7月23日にサントス・ドゥモンが自殺を遂げると、彼の遺体は防腐処理がなされました。この時執刀した医師、ウォルター・ハベルフェルトは発明家の心臓を取り出し、数年間保存しました。1944年に保存されていた心臓は、イカロス像の掲げる金の球体の中に収められ、ブラジル政府に寄付されました。現在、「サントス・ドゥモンの心臓」はリオデジャネイロ州の宇宙航空博物館に収められています。下の写真は、レプリカです。

サントス・ドゥモンの博物館は、ビール醸造所で有名なリオデジャネイロのペトロポリス市にありますので、興味のある方は一度足を運んでみてはいかがでしょうか。