ブラジルの東端にあるレシフェの歴史は1534年にポルトガル人が世襲カピタニア制を導入した時から始まります。
ペルナンブッコ州の州都レシフェの歴史
カピタニア制の導入に伴い、ペルナンブーコはドゥアルテ・コエーリョ卿(Duarte Coelho)により統治されるようになりました。
*カピタニア制とは、カピタン(領主)が領地を支配する定住型の植民様式を指します。
ちなみに、ペルナンブーコは、15のカピタニアの中で唯一経営に成功したカピタニアでした。
ドゥアルテ・コエーリョがインディオと良好な関係を結ぶことができたことがその理由です。
レシフェという名前は、その海岸沿いを囲む岩礁(レシフェ)から由来しています。レシフェは、町ができてから1630年にオランダ人がブラジルに侵入するまでの間は、砂糖などの商品やポルトガルからの貿易財を取引する単なる港にすぎませんでした。
オランダによる占領
サトウキビの経済効果に目を付けたオランダ人がペルナンブーコを占領した際、当時経済開発されていたオリンダではなくレシフェへの町づくりを行ったのはオランダ人が平坦な地に馴染んでいたためでした。(オランダは土地が平坦)
ナッサウ伯爵による都市計画
1636年に、オランダ領ブラジル総督として、ジョン・マウリシオ・ジ・ナッサウ伯爵(João Maurício de Nassau)が就任しました。
ジョン・マウリシオ・ジ・ナッサウ伯爵
ナッサウ総督の元、道路が整備され、多くの橋が建設されました。ナッサウ総督はヨーロッパから建築家、技術士、風景画家を呼び込み、レシフェの開発を進めました。
オランダ撤退後
1654年にオランダが撤退した当時、サトウキビ農園主はオリンダに住み、新興商人はレシフェに住むという構図が出来上がっていました。
サトウキビ農園主と新興商人の対立が深まり、1710年にはマスカット戦争が起こります。(マスカットは、新興商人に対する蔑称)
サトウキビ栽培とレシフェの港貿易に支えられてレシフェはその後も経済的・文化発展をつづけました。レシフェ法科大学はブラジルで最も古い大学の一つ。ペルナンブッコ新聞(o Diário de Pernambuco)は、ラテンアメリカで最も古い歴史を有する新聞です。
ペルナンブーコの反乱
1817年、ペルナンブーコはポルトガル本国からの独立革命を起こします(ペルナンブーコの反乱)。この革命は、ジョアン六世の手によって制圧されましたが、ポルトガル支配に対する反抗気運を高めました。
ペルナンブーコの反乱の五年後、1822年にブラジルが独立する前の大きな一歩となりました。
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