ブラジルに共和制が誕生した背景を知ろう

11月15日は「共和制宣言の日(Proclamação da República)」であり、ブラジルは祝日です。共和制とは何かというのを大辞泉で調べると次の通り定義されています。

主権が国民にあり、直接または間接に選出された国家元首や複数の代表者によって統治される政治形態。

共和制の対義語は、「君主制」です。ブラジルにおいては、1822年にドン・ペドロ一世が宗主国ポルトガルからの独立を宣言し、君主制が敷かれ、その後、息子のドン・ペドロ二世の父子二代にわたり、君主制が67年間続いています。

この君主制を打ち破って成立したのが、今日ご紹介する共和制です。共和制誕生の背景に何があったのか見ていきましょう。

コーヒー産業により繁栄した帝政

ブラジルの二代目の皇帝であるドン・ペドロ二世が即位した1831年は、リオデジャネイロを中心とするコーヒー産業が躍進を始めた年でした。1850年までにコーヒー産業は、ブラジルの輸出総額の約50%を占めるまでに成長しています。ペドロ二世の治世はコーヒー産業によって繁栄したのです。

リオデジャネイロ周辺のコーヒー農園で成功をおさめた農園主達は貴族の爵位をカネで購入し、特権階級を形成します。当時のブラジルの政治は、彼らのような少数の特権階級によって牛耳られていました。

コーヒー栽培地の広がり

当時、ブラジルでは肥料を施さない略奪農業がおこなわれていたため、土地の疲弊に伴い、農地を移動するということが行われていました。コーヒー農園はリオデジャネイロから、西のサンパウロに移動していきました。

パラグアイ戦争による陸軍の台頭

1864年にパラグアイの独裁者ロペスが、ウルグアイの内乱に介入して始まったパラグアイ戦争は、パラグアイと三国連合(ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイ)との間で争われた戦争です。5年ほど続いたこの戦争で、パラグアイは全人口の半分以上の人命を失うという、悲惨な結果を招きました。この戦争に勝利したブラジルは、領土を拡張しています。

パラグアイ戦争への勝利により、ブラジル陸軍は威信を高め、政治への影響力を強めていくようになります。

奴隷制の廃止と農園主の反発

ブラジルでは1850年に新規で奴隷売買を禁止する法律が施行されました。1860年代に入ると、ブラジル議会において奴隷制廃止論が熱を帯び始めました。黒人奴隷はコーヒー産業において欠かせない労働力ではありましたが、1870年代以降、イタリア、ポルトガル、スペインなどから大量の移民が新天地を求めてブラジルに渡ってきており、労働力は奴隷から移民に移行していったのです。

人道的な観点から、民衆の間で奴隷解放への動きが高まりを見せていましたが、リオデジャネイロのコーヒー農場主たちは、奴隷解放は愚策であるとして、これに反対しました。

1888年にドン・ペドロ二世の長女、イザベル皇女によって奴隷制度の廃止令が署名されると、奴隷制度の存続を望む大農園主等は、ブラジルの君主制に対して反発を強めました。奴隷制度の廃止を受けて、彼らは、君主制を倒し、共和制を敷くべきとの考えに傾倒していきました。

皮肉なことにイザベル皇女の奴隷制廃止令が、ブラジルの君主制にとどめを討ったのです。

中流階層の台頭と政治参加

コーヒー産業を源として、鉄道建設や工業、サービス産業が発達し、それに伴い中流階層が増えていました。当時のブラジルの政治は、リオデジャネイロの貴族を中心とする一部の特権階級が握っていたため、彼ら中流階層が政治に関わることができませんでした。

そのため、中流階層たちの間で、自分たちが政治に関わるためには、旧態依然としているブラジルの君主制を崩壊させ、新たに共和制を敷く必要があるとの機運が高まっていきました。

サンパウロの農園主たちの政治参加

サンパウロの新興農園主たちは、コーヒー産業の成功により、経済的な成功を収めていました。一方で、リオデジャネイロの貴族が政治的な権力を有していることに対して、不満を持ち、次第に彼らと同等の政治的な権力を欲するようになりました。

共和制樹立の機運の高まり

君主制に対する不満の高まりは、1870年以降に加熱していきました。共和主義者たちは、共和国の青写真を議論し始め、その気運に対して、陸軍が加勢し、カトリック教会も賛同を示しました。共和制の思想を持つグループは、既にブラジル全土に広がりを見せていました。

そのうちに、皇帝のドン・ペドロ二世が、軍隊を再編成すると言う噂もささやかれ始めました。デオドーロ・ダ・フォンセッカ将軍は、皇帝により罷免されることを恐れてリオデジャネイロの軍隊を招集し、陸軍省に乗り込みました。

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デオドーロ・ダ・フォンセッカ将軍

当初は、陸軍省の改変のみを要請するものでしたが、デオドーロ将軍の加えた圧力は、内閣を解散させるのに十分な脅威となり、結局、これにより共和制が成立しました。

軍によるクーデターは、1889年11月15日に実現し、共和制の成立がリオデジャネイロの議会において承認されました。“共和制”と言いつつも、共和制宣言は政治的な思想に基づくものではなく、また、国民不在において実現したものでした。ブラジルの共和制宣言は随分と野蛮な方法によって実現したのです。

こうして、67年間続いたブラジル帝政は終焉しました。ドン・ペドロ二世と皇室は11月18日にヨーロッパに亡命しました。暫定的なブラジル大統領の座にはデオドーロ将軍が付きました。共和制の成立をもって、ブラジル大統領は国民によって選出されるようになり、ブラジル民主主義の大きな一歩を踏み出したのです。

まとめ

ブラジルに共和制が誕生した背景を長々と書いてきましたが、これをさくっとまとめると次の通りです。

ドン・ペドロ二世の君主制は、コーヒー産業に発展と共に繁栄を謳歌しましたが、コーヒー産業の発展で経済力を付けた大農園主や知識層は、経済力を背景に、政治的なパワーを得たいと考えるようになりました。彼らが政治力を得るためには、ドン・ペドロ二世を頂く君主制は邪魔であり、共和制を敷かねばならないという機運が高まりました。

そんな中、皇室のイザベラ皇女が奴隷廃止令に署名し、奴隷の労働力を当てにしている農園主たちの怒りに火を付けます。当時、その存在が過小評価されていたブラジル陸軍を共和主義者たちが担ぎ上げて、君主制を崩壊させるというクーデターを起こしました。

これにより、ブラジルに共和制が誕生するのですが、それは、単に支配層が入れ替わっただけのことであり、国民の参加する共和制がブラジルに誕生するのはこれよりもずっと後のことになります。

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