ブラジルの語源になったパウ・ブラジル

ブラジルの国名は、「パウ・ブラジル(Pau-brasil)=ブラジルの木」に由来すると言われています。パウ・ブラジルは日本語では「蘇芳(すおう)の木」と呼ばれるマメ科の落葉植物です。パウ・ブラジルの心材はブラジリンと呼ばれる色素を含み、これを煎じた汁は、染料として利用されます。紫がかった赤色は蘇芳色と呼ばれます。

「ブラジル」の語源

ブラジルという言葉は「ブラーザ(brasa)」という言葉に由来しています。ブラーザは、「灼熱」を意味する単語で、パウ・ブラジルの心材が炎のように赤い色をしていることに由来しています。パウ・ブラジルは、先住民の言葉では「イビラピタンガ(赤い木)」と呼ばれていました。

パウ・ブラジルの利用方法

ブラジルのマタ・アトランチカ(大西洋岸森林)には、このパウ・ブラジルが非常に多く自生していました。ポルトガル人がブラジルを発見してから、彼らはパウ・ブラジルをヨーロッパに輸出するようになりました。ヨーロッパでは、パウ・ブラジルが高級衣類の染料として人気を博した他、楽器、家具の素材としても好んで利用されました。

なお、ブラジルに限らず、東南アジア、インドなどでもパウ・ブラジルが自生しており、日本でも古代に中国から伝わっています。

ブラジルの開発は「パウ・ブラジルの輸出」から始まった

ポルトガル王室はパウ・ブラジルの輸出権益を保護するため、パウ・ブラジルの輸出業を許認可制にしました。1503年にフェルナンド・デ・ノローニャが初めて許認可を受けています。ポルトガル人達は、鍬や手斧をインディオに贈り、その代りに食糧とパウ・ブラジルを伐採するための労働力をインディオから得ていました。この物々交換のことを「エスカンボ」と呼びます。ヨーロッパ人にとっては、ありふれた品々もインディオにとっては珍しく喜ばれました。

このように、ポルトガル人によるブラジル開発は、パウ・ブラジルの伐採と輸出から始まったので、いつしか、この地は「ブラジル」と呼ばれるようになったのです。

余談ですが、1503年にポルトガル王室からパウ・ブラジルの輸出許認可を得たフェルナンド・ノローニャは、翌年1504年にペルナンブーコの北東にある島を発見し、「フェルナンド・デ・ノローニャ島」と名付けました。世界遺産(自然遺産)にも登録されているこの島は、世界の最も美しい10の島に選出されています。

フランスの脅威

パウ・ブラジルの存在は、他のヨーロッパ諸国の関心も集めることとなり、とりわけフランス人は熱心にブラジルまでの航海を行い、1494年にスペインとポルトガルが定めたトルデシーリャス条約を無視してブラジルに上陸し、パウ・ブラジルを伐採しました。ポルトガルは、他国の商人を追い出すために沿岸警備隊を派遣しています。しかし、広大なブラジルの沿岸部を十分に警備することは困難を極め、ポルトガルはフランスの密輸を止めることができませんでした。

フランスの侵入を黙認した場合、植民地ブラジルがフランスに占領されてしまう恐れがありました。そこで、ポルトガル王室は従来のように、ブラジルの資源をヨーロッパに輸出するだけでなく、ポルトガル人をブラジルに定住させる方針に切り替えました。1530年に、マルティン・アフォンソ・デ・ソーザ率いるポルトガル船団が、初めてブラジルに入植しています。

その後、パウ・ブラジル産業は衰退し、ブラジルの主要産業はサトウキビ→ゴールド→コーヒーと変遷していきます。

ブラジルは、ペルナンブーコと呼ばれていたかも?

ついでながら、フランスやイタリアでは、パウ・ブラジルではなく、ペルナンブーコの木と呼ばれていたようです。これは、ペルナンブーコのマタ・アトランティカから、良質のパウ・ブラジルが得られたことに由来しています。もし、ポルトガルが植民地経営に失敗し、ブラジルをフランスに奪われていたなら、ブラジルはペルナンブーコと呼ばれていたかもしれません。