世界遺産シントラとペーナ宮殿の歴史

リスボンの北西約20キロの場所にかつての王室の避暑地として複数の宮殿が建造されたシントラの町があります。

イスラム教徒が「太陽」と名付けた町

シントラがリスボンに次ぐ都市として発展したのは、イスラム教徒がイベリア半島を支配した頃のことでした。シントラは、もともとアラビア語で「シンタラ」又は「シャンタラ」と呼ばれていました。その名前には「輝かしい天体」又は「太陽」という意味があります。

ポルトガルのもとで発展

イスラム教徒が拓いたシントラは、キリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)の過程で、アフォンソ・エンリケスにより1147年にポルトガルの支配下に治められました。アフォンソ・エンリケスは、修道院、軍の施設などの建設を命じ、ポルトガルの支配下になってからシントラは大いに発展しました。

19世紀になると、エキゾチックな文化と温暖な気候を持つシントラの価値がポルトガルのみならず、ヨーロッパ全体として見直され、町の景観の修復作業が進められました。その最たる例が、ぺーナ宮殿の修復です。また、シントラへの鉄道が19世紀末に開通し、避暑地としての人気が一層高まりました。

ペーナ宮殿


ペーナ宮殿(Palácio Nacional da Pena)は、シントラで最も人気のある観光地です。ペーナ(pena)というのは、ペ-ニャ(penha)、すなわち「」という単語のかつての表記で、岩の上に立つ宮殿だから、ペーナ宮殿と呼ばれるそうです。

19世紀のロマン主義を代表する建物で、ペーナ宮殿ができる前には、ペーナのマリアを祀るチャペルがありました。16世紀になると、マヌエル様式で有名なマヌエル1世が、ジェロニモス修道院に寄付し、チャペルを立て直して修道院を建設しました。

1838年、ポルトガル王フェルナンド2世が、シントラの丘を訪れたとき、シントラの素晴らしい景観と、古い修道院に感動し、この地を再建することを決意しました。

フェルナンド2世と言われてもピンとくる人は多くないものと思います。ブラジルの歴史を学んだ方なら、ブラジルの初代皇帝ペドロ1世の娘、マリア・ダ・グロリアの名前は聞いたことがあると思います。フェルナンド2世は、このマリア・ダ・グロリア(マリア2世)の旦那さんです。マリア2世とフェルナンド2世の夫婦はポルトガルを共同統治していました。フェルナンド2世は「芸術の王」と呼ばれています。

フェルナンド2世

ペーナ宮殿とは関係ないですが、フェルナンド2世がシントラを訪れた16年前にブラジルはポルトガルから独立しています(1822年)。「独立か死か」と叫んでブラジルの独立を推進したのは、フェルナンド2世の義父であるペドロ1世です。

捏造されたブラジル独立「イピランガの叫び」
9月7日はブラジル独立記念日です。ブラジル独立と言えば、ペドロ一世が、「独立か死か!」と叫んだと言われる「イピランガの叫び(O Grito do Ipiranga)」が有名です。このイピランガの叫びは、ブラジル国歌の歌詞にも謳われています。 ...

フェルナンド2世は、自分の避暑用の別荘とするため、修道院の改築を進めました。フェルナンド2世のシントラ訪問からおよそ10年後の1847年、ペーナ宮殿はついに完成しました。改築はドイツ人建築家が担当し、ヨーロッパ各地の様式が取り入れられました。フェルナンド2世の希望で、中世様式やイスラム様式も取り入れられました。その結果、異国情緒あふれる個性的な宮殿に仕上がっています。

その後、ルイス1世、カルロス1世と王妃アメリア、マヌエル2世などがこの宮殿に居を構えました。ポルトガルが共和制に移行してからは、ペーナ宮殿は一般に開放されるようになっています。

立派な入口

右側の青い色のアズレージョ(タイル)がポルトガルらしいです。

門を守る海のトリトン

王の居城やチャペルは、赤い色の塔がある建物の中にあります。

ダイニングルーム

チャペル

広間

王の寝室

今も美しく保存されている、ペーナ宮殿。リスボンから日帰りで行ける近郊にあります。リスボンを観光するなら、外せない見どころの一つです。

世界遺産シントラのおすすめ観光コース
リスボン郊外(北西約20キロの場所)にある世界遺産シントラは、リスボンから日帰りで行くことができる人気の高い観光地です。シントラには、かつて王族が住んだ「ぺーナ宮殿」、8世紀に北アフリカからイベリア半島にやってきたイスラム勢力によって築かれた「ムーア...