5分で分かるポルトガル王国誕生の歴史(前編)

ポルトガル王国が産声を上げたのは割と最近(?)の1143年のことです。日本でいうと平安時代末期の頃で、平清盛、源義朝はこの時20代でした。
この記事では、無謀にもポルトガル王国誕生までの歴史を5分で理解できるように簡潔にまとめることを試みてみました。
ポルトガル王国誕生までの歴史は以下のように大きく6つのテーマに分けることができます。

  1. フェニキア人の入植
  2. ローマ支配
  3. 西ゴート族支配
  4. イスラム支配
  5. レコンキスタ(国土回復運動)
  6. アフォンソ・エンリケスの登場

ポルトガル王国は、その成立までに、多くの民族による支配を受けて多様な文化を醸成してきました。前編では、イスラム勢力による支配までの歴史をご紹介いたします。

フェニキア人の入植

紀元前800年頃に、現在のシリア、レバノン沿岸に勢力範囲を有していたフェニキア人がイベリア半島に入植しました。フェニキア人は、現在のチュニジアがある場所に「カルタゴ」という都市を建設し、勢力範囲を拡大しました。カルタゴの勢力範囲は、北アフリカと地中海沿岸の広範囲に及び、リスボンのあったポルトガル南部も、このカルタゴの一部になりました。

ローマ支配

紀元前200年頃になると、ローマ人がフェニキア人と覇権争い(ポエニ戦争)を始めました。3度に渡る争いに勝利したローマ人は、カルタゴをイベリア半島から追い出すことに成功。この戦争でカルタゴ軍を率いたのが有名なハンニバル将軍、ローマ軍を率いたのが大スキピオと小スキピオです。

余談ですが、フェニキア人は、ローマ訛りで「ポエニ人」と呼ばれていたことから、ポエニ戦争という名前がつけられました。

戦後、イベリア半島はローマ人によって3つの州に区分されました。ローマ人が進出する前は、半島内の各地域は独自の文化、人種を維持していましたが、ローマ人が、街道を建設し、河川に橋を架ける等のインフラ整備を行ったことにより、各地域が統合され、ローマの文化が浸透していきました。

また、ローマ人支配の時に、先住民の言葉はラテン語に変更を迫られ、それが後にポルトガル語の基礎となりました。

ローマ人によるイベリア半島支配は約600年続きました。

西ゴート族支配時代

376年にフン族(北アジアの遊牧騎馬民族)に土地を追われたゲルマン民族で西ゴート族という民族がいました。西ゴート族はバルカン半島、ギリシャ、イタリアを経て、415年にイベリア半島に入りました。丁度ローマによるイベリア半島の支配が緩んでいたことから、彼らは西ゴート王国を建設し、首都をトレドに定めました。イベリア半島は、このゲルマン民族によって約300年間支配されることになりました。

トレドはスペインのマドリードの近郊にある都市です。

イスラム支配時代

711年、北アフリカからジブラルタル海峡を渡ってイスラム教徒が西ゴート王国に侵入しました。時の国王ロドリゴは、国民的結束を呼びかけたものの失敗し、西ゴート王国は滅びました。ついでながら、ブラジルには「ロドリゴ」という名前の人が非常にポピュラーですが、その由来は、この西ゴート王国最後の王の名前にあるようです。

イスラム勢力はイベリア半島侵攻から4年後には最北部を除くほぼ全域を支配下に収めました。彼らは、征服した土地をアンダルシア(アル・アンダルス)と呼び、首都をコルドバに置きました。

コルドバは、スペイン南部のアンダルシア地方の都市です。

オレンジ色はウマイヤ朝の勢力範囲

イベリア半島はイスラム勢力の「ウマイヤ朝」の支配下に入りました。「ウマイヤ朝」というのは、ウマイヤ家出身のムアーウィア1世がシリアのダマスカスに築いた初期イスラム国家の名称です。

シリアのウマイヤ朝は、750年にアッバース家に攻め滅ぼされました。この時に、一族虐殺を逃れてイベリア半島に入植したウマイヤ家の子孫が、イベリア半島に開いた王朝を「後(こう)ウマイヤ朝」と呼びます。アンダルシアには、北アフリカから新しい農作物(米、綿花、サトウキビ)などが持ち込まれ、灌漑技術も進歩しました。

ポルトガル語には、いまだに多くのアラビア語の影響が残っています。

アンダルシアの語源は定説が無いのですが、一説にはこの地に住んでいたゲルマン民族のヴァンダル族のアラビア語訛りに由来するというものがあります。アル(AL)というのは、アラビア語の定冠詞(Theに相当)に当たります。さらに余談を続けると、有名なアルハンブラ(alhambra)宮殿は「赤い城」の意を表しますが、こちらも、冒頭のアルは定冠詞の意味です。

イスラム支配は、1492年にカトリック両王(フェルナンド2世とイザベル1世)がレコンキスタを完了するまで、約800年間に渡って続きました。
後編)に続く。