5分で分かるポルトガル王国誕生の歴史(後編)

前編では、711年に北アフリカから攻めてきたイスラム勢力が、西ゴート王国を滅ぼし、イスラム王朝の「後(こう)ウマイヤ朝」を開いたところまで書きました。後編では、土地を追われた西ゴート族が国土回復運動を展開し、その過程で初代ポルトガル王が誕生する経緯をご紹介します。

レコンキスタ(国土回復運動)

イスラム勢力に追われた西ゴート族はイベリア半島北部に逃れ、西ゴート王国再興の理念を掲げてアストゥリアス王国を建国し、イスラム勢力から国土を取り戻すべく、レコンキスタ(国土回復運動)を始めました。レコンキスタは、イスラム勢力のイベリア半島占領から始まり、1492年にグラナダが陥落するまで、約780年の長きにわたって続きました。

後ウマイヤ朝で強力な指導力を有していたアル・マンスールが死去すると、息子たちの間で王位承継を巡る争いが発生するようになり、後ウマイヤ朝は急激に衰退し、1031年に後ウマイヤ朝は滅亡してしまいました。世襲制の王政ではどの国でも良くあることですね。マンスールが死去した後のイベリア半島は、指導者不在の元、イスラム教徒による小王国が乱立するようになりました。これが、キリスト勢力によるレコンキスタを加速させる要因となりました。

レコンキスタによって南下したキリスト勢力は、レオン王国、ナバラ王国、アラゴン王国、カスティーリャ王国を開きました。これらの国が、合従連衡し、また一部が独立することによって、後にポルトガルとスペインが誕生します。13世紀半ばには、イスラム勢力はわずかにイベリア半島南部のグラナダ王国を残すのみとなりました。

年代別のレコンキスタの変遷

Wikipediaより

ポルトゥカーレ伯の誕生

ポルトガル王国は、レコンキスタが進む中で、ポルトを中心とする地域が、レオン王国から分離独立することによって成立しました。

まだポルトガルが存在しなかった頃、レオン王国では、ポルトを本拠地とする地域を治めた支配者のことを「ポルトゥカーレ伯」と呼んでいました。

下の図の赤枠で囲った部分がポルトゥカーレ伯領でした。

868年にポルトを制圧したペレスという人が、ポルトゥカーレ伯第1号となります。ポルトゥカーレ伯は家臣団に支えられて、レオン王国から半ば独立してポルト周辺の領内を治めるようになりました。また、ポルトゥカーレ伯は世襲制だったので、領内では絶対的な権力を占める存在となっていき、レオン王国からの独立性を強めて行きました。

スペイン皇帝の誕生

1072年にカスティーリャ=レオン王に即位したアルフォンソ6世は、1077年にローマ教皇から「スペイン皇帝」の称号を許されました。彼は、イベリア半島の皇帝に即位し、西ゴート王国のかつての栄光を取り戻そうと考えました。アルフォンソ6世はレコンキスタの大義名分のもとに軍を指揮し、1085年にはトレドを陥落し、領土を拡大しました。

この頃、レコンキスタの成功に危機感を抱いていたイスラム勢力は、1086年に北アフリカに援軍を要請しました。一方のカスティーリャ王は、これに対抗するべく、フランスの援軍を要請しています。

ポルトゥカーレ伯とアフォンソ・エンリケスの登場

アルフォンソ6世は、ポルトゥカーレ伯が世襲制により力を付けることにより、イベリア半島の中央集権体制が弱体化することを危惧していました。そこで、イスラム勢力と対抗するために援軍に駆けつけてくれたフランス人のエンリケを自らの娘テレサと結婚させ、エンリケにポルトゥカーレ伯の地位を譲渡することにしました。

フランス人のエンリケとテレサの間には、アフォンソという息子が生まれました。父親の名前を取って、「アフォンソ・エンリケス」とも呼ばれます。このフランス人との混血児が、後にポルトガル王国の最初の王、アフォンソ1世になるのです。

最初のポルトガル王、アフォンソ・エンリケスの家計をご確認ください。

ポルトゥカーレ伯の領土の北には、「ガリシア王国」がありました。ポルトゥカーレ伯の一部は、かつて、ガリシア王国の一部でした。

ガリシア

Wikipediaより

アフォンソ・エンリケスの父親でポルトゥカーレ伯であったエンリケが1112年に死去すると、ガリシアの支配者ペドロ・フロイラスは、ポルトゥカーレ伯の領土を取り戻そうと考え、死去したエンリケの未亡人であるテレサと自分の息子を結婚させることを企みました。

ポルトゥカーレ伯領の貴族や司教は、ガリシアによる乗っ取りを食い止めるため、テレサの息子であるアフォンソ・エンリケスを擁立して、テレサ率いるガリシアに対抗しました。母(テレサ)と息子(アフォンソ・エンリケス)がそれぞれ旗印となって、ポルトゥカーレ伯の領有権を巡る争いが発生したのです。

この争いは、アフォンソ・エンリケス率いるポルトゥカーレ軍の勝利に終わりました。その結果、母親のテレサはガリシアに逃亡し、アフォンソ・エンリケスはポルトゥカーレ伯に叙されました。

ポルトガルの誕生

1126年、アフォンソ・エンリケスの従弟がアルフォンソ7世としてカスティーリャ王に即位しました。彼は、祖父のアルフォンソ6世と同様に、皇帝思想を持った人物で、1135年には「イベリア半島の皇帝」を自称しました。アルフォンソ7世は22歳、アフォンソ・エンリケスが17歳の頃です。

ポルトゥカーレ伯(アフォンソ・エンリケス)は、アルフォンソ7世の家臣という事になりますが、独立不羈の態度を示し、皇帝の即位式には参列せず、領土をめぐって皇帝と対立することすらありました。

1139年、テージョ川以南(アレンテージョ)のオウリケ(Ourique)において、アフォンソ・エンリケスはイスラム勢力よりも遥かに少ない勢力で争い、伝説的な勝利を収めました(オウリケの戦い)。この戦勝をもって、アフォンソ・エンリケスは、家臣団から担ぎ上げられて、ポルトガル王を自称するようになりました。

初代ポルトガル王、アフォンソ・エンリケス。

「オウリケの戦い」はアフォンソ・エンリケスにとって、織田信長の「桶狭間の戦い」、豊臣秀吉の「山崎の戦い」、徳川家康の「関ヶ原の戦い」に相当すると言えるでしょう。

アフォンソ・エンリケスが「勝手に」ポルトガル王を自称したことで、スペイン皇帝のアルフォンソ7世との間に対立が生じることを危惧したローマ教皇は、使節を送り、この2人を和解させることにしました。

この時、アルフォンソ7世は、ポルトガルがカスティーリャ領に侵入しないことを条件として、アフォンソ・エンリケスがポルトガル王を名乗ることを黙認したと言います。

1143年、アルフォンソ7世に容認されたことにより、ポルトカーレ伯領はカスティーリャ・レオン王国から独立し、「ポルトガル王国」が誕生しました。

もう一度、家系図を示しておきます。

ポルトガルは一足早く、レコンキスタ完了

その後、アフォンソ・エンリケス率いるポルトガル軍は南下を進め、1147年にサンタレン、リスボンを陥落、1165年にエヴォラの奪還に成功しました。

アフォンソ・エンリケスの曾孫であるアフォンソ3世の時代、1249年にシルヴェスとファロを攻略し、ポルトガル領内のレコンキスタは完了しました。お隣のスペインより約240年早くレコンキスタを完了したことは、その後の大航海時代において、スペインに先んじて海外進出を果たすことの要因の一つとなりました。