リオデジャネイロが首都となった理由

1500年にカブラルがブラジルを「発見」してから、ブラジルの首都は三回変わっています。

最初の首都が、サルバドール、二番目の首都が、リオデジャネイロ、三番目の首都が、現在のブラジリアです。

ブラジルの古都、リオデジャネイロ

1763年から1960年までの約200年間、ブラジルの首都はリオデジャネイロに置かれていました。リオジャネイロは、ブラジルの首都であったばかりでなく、一時期、ポルトガル王室もリオデジャネイロにあったということをご存知でしょうか?このコラムでは、リオデジャネイロが首都になった経緯とそれに関係する歴史をご紹介します。

遷都の理由は金脈の発見

リオに遷都するまでの首都はサルバドールに置かれていました。初期の主要産業は砂糖生産で、主な生産地はブラジル北東部でした。しかし、ミナスジェライスで金脈が発見されると経済の中心が次第に南東部へ移っていきました。

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かつて採金事業で栄えたオウロプレットの町

当初ミナスジェライスの住民は金鉱で働く労働者がほとんどだったので、食料や衣類、採掘に必要な道具は外部から調達していました。

1707年にミナスジェライスとリオデジャネイロとを結ぶ道路が開通すると、リオデジャネイロはミナスジェライスへの供給地としての役割を強めます。

このような過程を経て、リオデジャネイロはブラジル経済の中心としての役割を担ってきたことから、1763年に新しい首都とされることになったのです。


サルバドール、リオデジャネイロ、ミナスジェライスの位置関係

内陸部への遷都案が浮上

リオデジャネイロに遷都されて間もない頃、沿岸部を離れて内陸部に首都を移すべしとの意見が出てきました。

候補として挙がっていたのは、ミナスジェライスにあるサン・ジョアン・デル・ヘイ市

しかし、オウロ・プレットと共にかつて金鉱で栄えたこの町に遷都する案は、1789年に起こったブラジル独立運動の萌芽である「ミナスの陰謀」の発生により立ち消えとなってしまいました。

ナポレオンの侵攻とポルトガル王室のリオ遷都

「ミナスの陰謀」が起こった1789年、フランスではフランス革命が起こり、ナポレオンが皇帝の位置に就きます。

1806年、ナポレオン皇帝はイギリスへ圧力をかけるため、大陸封鎖令を公布し、ヨーロッパの国々がイギリスと通商することを禁止しました。

当時ポルトガルは、イギリス船がポルトガルの港に出入りすることを認めていました。ナポレオンは、ポルトガルに対してイギリスと断交しなければ侵略するという脅しをかけてきます。

当時のポルトガル王室の女帝、マリア一世の下、国政を引き受けていたドン・ジョアンはナポレオンからの圧力を受けて、植民地ブラジルへ逃避する決断を下しました。

ドン・ジョアン

ポルトガル王室は、隣国スペインからの絶え間ない脅威にさらされていました。また、植民地ブラジルに豊かな資源があるという魅力もありました。これらの要因がドン・ジョアンに王室移転を決意させます。

1807年、ドン・ジョアンは王族、貴族、聖職者など総勢15,000人ほどの人員を載せた船団を組み、ブラジルへと出航します。フランス軍が、ポルトガルの首都リスボンを陥落させたのはドン・ジョアン一行がブラジルに向けて出港した翌日でした。

ブラジルに到着した王室一行は1808年、リオデジャネイロに到着し、そこに宮廷を置くことになります。ポルトガル王室が移転してから、リオデジャネイロは首都として整備され、近代的な建築物も増え、美化が進みました。

ナポレオンの失脚とジョアン六世の即位

1815年にナポレオンがワーテルローの戦いで決定的な敗北を喫し、失脚した後もブラジルが気に入ったドン・ジョアンは本国ポルトガルに帰還しませんでした。

そこで、ドン・ジョアンはブラジルを植民地から「王国」に昇格させ、「ポルトガル・ブラジル・アルガルヴェ連合王国」に組み込みました。(*アルガルヴェというのはポルトガル南部の地域で独立王国とみなされていました。)

翌1816年には、女帝マリア一世が死去し、ドン・ジョアンは「ジョアン六世」として即位します。ジョアン六世は、後のペドロ一世の父親、ペドロ二世の祖父に当たります。ジョアン六世が即位してから6年後の1822年、ブラジルはポルトガルからの独立を果たします。

ブラジルの独立については、下記の記事をご覧ください。

3分で分かるブラジル独立の歴史
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