自分の中に自分のモノサシを持つ人が実践していること

海外(ブラジル)で働き始めて三年半が経ちました。海外に住んでみて意識するようになった「自分のモノサシ」を持つことについて書いてみます。

日本の常識は日本だけで通じるものが多いことが分かった

この世界には、日本にしか存在しない考え方や慣習が山のように存在します。そのなかには、他の国に誇れると思えるものもあれば、何故そんな考え方をするのだろうと思うこともあります。

ある社会にどっぷりと浸かっていると、その社会のことが見えにくいですが、海外から見ると、それが見えるようになります。

例えば、日本の教育は、カリキュラムに従って、平均的な知識を教育することが一般的です。知識を大量に詰め込むには効率的かもしれないですが、個性を伸ばすには効果的ではないかもしれません。

一方で、北欧などの教育は、生徒一人ひとりの個性を伸ばすことに重点を置いており、クリエイティブな人が育ちやすい面がありますが、反面、競争させないことで学力の低下を招くという弊害が考えられます。

テストで高得点を取るのが良いことだと考える社会もあれば、自分の意見をしっかりと主張できることが良いことだと考える社会もあります。

重要なのは、どの国の教育制度にも一長一短があるのですが、日本の制度しか知らないと、比較対象がないので、「評価の物差し」を決めるに当たり日本の常識に縛られてしまいがちになるということです。

他の国の「物差し」も知った上で、それらを比較検討し、自分が良いと思う組み合わせを選択することで、日本にも北欧にも無い、新しい方法を思いつくことができます。

一つの場所にとどまっていると、新しいものは産まれない

幕末における越後長岡藩の家老、河井継之助を描いた小説『峠』が好きで、これまでに三回読んでいるのですが、その中にこんなことが書いてあります。

文明というものは民族や国家間でたがいに影響されあうことによって発展するものだが、日本人は地理的孤立のなかにあったために、その能力を他文明から刺戟されることがなかった。

人間はその現実から一歩離れてこそ物が考えられる。距離が必要である、刺戟も必要である。愚人にも賢人にも会わねばならぬ。じっと端座していて物が考えられるなどあれはうそだ。

新しいものを生み出すための2つの視点

①文明の発達のためには、他の文明から影響を受ける必要がある
②自分のこと(日本のこと)を理解するためには、現実から一歩離れて眺める必要がある

影響を受けるためには、必ずしも日本から海外に出る必要はありません。別のコミュニティに顔を出してみる、いつもとは違うことをしてみる、新しいことに挑戦してみるなど、慣れ親しんだことと違うことをするだけで新しいアイデアが浮かんでくるきっかけが生まれます。

他人のモノサシを批評するのではなく、自分のモノサシを作れ

他人を批評することは非常に簡単で、ある種の快感を伴います。ものごとを批判的に見ることは大切ですが、そこから何を学び、何を実行するかという行動につなげることができなければ、単なる批評家で終わってしまいます。この点について、セオドア・ルーズベルトが次のように言っています。

大事なのは批評家ではない。あの猛者もあそこでつまずいただとか、何かの成功者のことを、もっといいやり方があっただとか、そういう指摘をする人たちではない。 称賛されるべきは、行動に出て顔を泥と汗と血で汚した人たち、懸命に奮闘した人たち、どんな努力にもつきものの過ちや失敗をくり返してもなかなか成功に至らなかった人たち、だが、実際に努力を尽くした人たち。偉大な情熱と偉大な献身とは何かを知っている人たち、大義のために自分を賭すことのできる人たち、最後に成功に至ったときの喜びを知る人たち、最悪なことに失敗してしまったが、果敢に挑戦した結果、勝利も敗北も知らずに冷めきった臆病な心を持つ者にはけっしてたどり着けない場所に到達した人たちだ。 ―― セオドア・ルーズベルト

ぼくは、多様な価値観に触れて自分の中のモノサシをつくり、批評家ではなく行動家でありたいと思います。