スペイン生みの親、イサベル1世の波乱万丈な生涯

ブラジル誕生の重要なきっかけの一つに、「トルデシーリャス条約」の締結があります。この条約は、1494年にポルトガル、スペイン間で締結されたもので、両国の海外での勢力範囲を決定した条約です。この時に定めた境界線にブラジルの領土が引っかかっていたことから、後にブラジルはポルトガルの領土と決められました。

このトルデシーリャス条約の締結において、スペイン側の代表として参加したのが、イザベル女王でした。この、イザベル女王は他にもレコンキスタの達成、スペイン統合、コロンブスへの出資等、歴史に残ることを多く成し遂げています。(異端審問所の設置などの負の歴史もあります。)

このイザベル女王の波乱万丈の人生を簡単にご紹介します。

カスティーリャ王の長女イザベルの誕生

1451年、イザベルはカスティーリャ王フアン二世の長女として生まれました。当時、カスティーリャ王は隣国のナバラ国・アラゴン国と協力し、およそ700年前にイベリア半島にやってきたイスラム勢力との戦いに日夜明け暮れていました。

カスティーリャ王には、イサベルの他に2人の息子(エンリケ、アルフォンソ)がいました。長男のエンリケは前妻との間に生まれた子供で、長女イサベルと次男アルフォンソは後妻との間に生まれた子供でした。

父親の死と兄の即位

エンリケ28歳、イサベル3歳、アルフォンソ1歳の時に父親のフアン二世はこの世を去り、長男のエンリケがカスティーリャ王に即位し、エンリケ4世を名乗りました。

このエンリケ4世は性的異常者で、夫人との間に性交渉が無かったため、不能王(エンリケ・インポテンツ)という不名誉なあだ名がつけられました。

田舎への追放

エンリケはカスティーリャ王に即位すると、気に食わなかった継母と妹弟(イサベルとアルフォンソ)をアレバーロという田舎に追放してしまいます。この時の記録はあまり残っていないのですが、貧しく不遇な生活を強いられたイサベルの母は、この時に精神異常をきたし、狂人になったと言われています。イサベルは母と弟と共にアレバーロでの不遇な日々を10年過ごしました。

王位継承問題

イサベルが13歳になった時、兄のエンリケ4世に突然「フアナ」と呼ばれる長女が誕生し、エンリケはフアナが自らの後継者であると主張しました。エンリケ四世が性的異常者であり、子供を作ることができないということは周知の事実でしたから、カスティーリャの貴族たちはエンリケの主張するフアナの王位継承に疑義を申し立てました。

エンリケの娘フアナは、エンリケの実の娘ではなく、エンリケの妻とその愛人のベルトランの不倫の結果で生まれた子供であると考えられていました。そのため、娘フアナはフアナ・ラ・ベルトラネーハ(Joanna la Beltraneja)=ベルトランの子供フアナという呼ばれ方をしています。エンリケの立場で考えると、娘がこんな名前で呼ばれるなんて、ちょっと同情してしまいます。フアナは、後にポルトガル王のアフォンソ5世と結婚しています。

エンリケ国王の統治に不満を抱いていた貴族たちは、正当な王位継承者はエンリケの娘ではなく、弟のアルフォンソであると主張しました。

貴族たちのロビー活動の結果、アルフォンソは国王の相続人(アストゥリアス公)に認められたのですが、彼は3年後に夭逝してしまいました(毒殺の噂も有り)。アルフォンソが死去すると、貴族たちはイサベルを女王に推戴しようと画策しました。

アラゴン皇太子との結婚

当時17歳であったイサベルは、貴族たちに担ぎ上げられた場合にエンリケ国王との間に生じる軋轢を予想し、これを避けるために隣国の有力者との政略結婚を思いつきました。

そして、アラゴン皇太子のフェルナンドと結婚することを決断し、それを実行に移しました。イザベルとフェルナンドとの結婚は、後にカスティーリャ王国とアラゴン王国が合邦して、スペイン王国を形成するきっかけとなりました。

カスティーリャ王イザベルの誕生


イサベル1世がカスティーリャ王に即位した1474年におけるイベリア半島の勢力地図(Wikipedia)

エンリケ4世が1474年に死去すると、イザベルがカスティーリャ王に即位しました。これに対して、ポルトガル王でエンリケ4世の娘フアナの夫であったアフォンソ5世は、カスティーリャの王位継承権はフアナにあることを主張し、カスティーリャの貴族と結託してイザベルと対立しました。イザベルは、夫の統治するアラゴン王国と協力して、ポルトガルと争いました。この争いは5年後の1479年にポルトガル軍の敗退によって収まりました。イザベルとの王位継承者争いに敗れたフアナ・ラ・ベルトラネーハはポルトガルに追放されてしまいます。

イザベルが王位を確立したのと同じ年、夫のフェルナンド皇太子もアラゴンの王に即位しました。これにより、隣り合うカスティーリャ王国とアラゴン王国は、夫婦王によって統治されるようになったのです。イザベルとフェルナンドは敬虔なカトリック教徒だったので、「カトリック両王」と呼ばれるようになりました。

レコンキスタの達成

カトリック両王はイスラム教国最後の拠点グラナダを征服し、イベリア半島からイスラム教徒を追放することに成功します(レコンキスタ=国土回復運動)。その後、カトリック両王は、ユダヤ人の追放や異端審所といった悪名高い政策を敢行して、スペインのカトリック化を進めました。

コロンブスの支援

イザベル女王の功績の一つとして、コロンブスの新大陸“発見”支援があります。コロンブスは、最初にポルトガル王のアフォンソ5世に航海計画を披露しましたが、ポルトガル王はその計画に出資してくれませんでした。そこで諦めなかったコロンブスはイザベル女王に航海計画を持ち込みました。イザベルが即位してから13年後の1492年、コロンブスの最初の航海がイザベルの支援のもとで敢行され、その結果、コロンブスはカリブ海の島に到達し、アメリカ大陸をはじめて“発見”した人になりました。(コロンブスは死ぬまでアメリカ大陸がインドだと信じていました)

イザベルの死

1504年、イザベルは53歳の生涯を閉じました。王位は次女のフアナに譲りましたが、このフアナは別名「狂女」と呼ばれました。イザベルの母親も狂女だったと言いますから、遺伝的な原因があったのかもしれません。フアナの生涯も波乱に満ちていて興味深いのですが、この稿とは関係がないので改めて書きます。