独立か死か!ブラジル独立の歴史

9月7日はブラジルが宗主国ポルトガルから独立した記念日です。

ブラジルの独立は、フランス革命に端を発してイギリスによるポルトガルの支配、スペイン・ポルトガルで起こった革命などの要素が複雑に絡み合った中で成立しました。ブラジル独立に至る経緯を理解するため、要素ごとに分かりやすく整理しました。

事前に以下の記事を読んで頂ければ、より理解が深まると思います。

リオデジャネイロが首都となった理由
1500年にカブラルがブラジルを「発見」してから、ブラジルの首都は三回変わっています。 最初の首都が、サルバドール、二番目の首都が、リオデジャネイロ、三番目の首都が、現在のブラジリアです。 ブラジルの古都、リオデジャネイロ 1763年から1...

ポルトガル王室無き後のポルトガルの情勢

ナポレオン統治下のフランスからの圧力を受けて、1807年にポルトガル王室はブラジルに逃避しました。王室去りし後のポルトガルはナポレオン皇帝のフランス軍により侵略されました。翌1808年、ポルトガル軍はイギリス軍の支援を受けてフランス軍を破ります。その後もポルトガルはフランス軍から2度の侵略をうけますが、これもポルトガル・イギリス連合軍が撃退します。

この戦争の結果、ポルトガルの国土は疲弊し、経済的繁栄は停滞期を迎えます。そして、フランス軍が去ったと思ったら、イギリス軍 ポルトガルに居座るようになっていたのです。

ポルトガルはブラジルの植民地?イギリスの属国?

ポルトガル王室がブラジルに移転した後、ポルトガル本国はさながらブラジルの植民地、又は、イギリスの支配下の国という様相を呈していました。イギリスによるポルトガル軍への支配、また、深刻な経済危機を背景に、革命への機運が熟していました。

ポルトガルで自由主義革命が勃発

1820年にスペインで発生した革命の影響を受けて、ポルトガルでもブルジョワジーが主導する自由主義革命が起こりました。

自由主義革命の目的

1.ブラジルに居るポルトガル王室を本国に呼び寄せて、王国の威厳を回復させよう。
2.王国に昇格していい気になっているブラジル王国を再びポルトガルの植民地の地位に降格させよう。
3.ポルトガルに国民主権政治、三権分立を実現させよう。

ポルトガル国王、ジョアン六世が帰国


ジョアン六世

1821年4月、ポルトガル本国での革命の報をブラジルで受けたポルトガル国王、ジョアン六世は急遽本国へ帰国します。1808年に彼がブラジルに到着して以来、13年ぶりの帰国です。よっぽどブラジルが気に入っていたんでしょう。ブラジル王国の政治に関しては、長男のドン・ペドロ(後のペドロ一世)に任せ、ジョアン六世はポルトガルに帰国しました。

ドン・ペドロ

ポルトガル人の自分勝手な考えにブラジル人が反発

国王をポルトガル本国に呼び戻したポルトガル議会は、ブラジルを王国の地位から植民地に戻すことを決議しました。

「あいつら、おれらの植民地だったくせに、王国に昇格してからいい気になりやがって。ブラジル好きのジョアン六世と一緒に王室をポルトガルに戻し、ブラジルを再び植民地に貶めてまた昔のように楽しくやろうぜ。」このようにポルトガル人は考えたのかもしれません。自分たちの国では「自由」を叫びつつも、ブラジルは植民地に戻れという自分勝手なポルトガル議会の決定にブラジル人は当然反発します。

「独立か死か」

ブラジル人の間で意見が割れる

ポルトガル議会によるブラジル再植民地化という決議を受けて、ブラジル人の間で意見が2つに別れました。

1.富裕層グループの意見

今まで通り、ブラジルの連合王国制度を維持したいという意見。彼らは自由主義革命がブラジルで起こった場合、自分たちの特権が失われる事を恐れました。「僕らは変化など望まない。今までどおり、ブラジルが王国として認められ
僕らの権利が維持できるのであれば、まあそれでいいじゃないか。」

2.ブラジルの独立推進派

ブラジルの中流層を中心としたグループで、ブラジルの自治権を確立するためにブラジルは独立すべきという意見を持っていました。

独立推進派のジョゼ・ボニファシオ

ドン・ペドロへの帰国命令が流れを変えた

1821年8月、4か月前にポルトガルに帰国した国王(ジョアン六世)に引き続き、皇太子(ドン・ペドロ)への本国帰還命令が出されました。ブラジルの行政機関をポルトガルに戻せという命令も同時に出されました。摂政かつ皇太子であるドン・ペドロと行政機関がポルトガル本国に戻されてしまったら、ブラジルの再植民地化は
秒読みとなり、独立の夢は消えてしまいます。

ドン・ペドロのポルトガル帰国を拒否したいと考えたジョゼ・ボニファシオらの独立推進派グループは、ドン・ペドロを説得し、1822年1月、ドン・ペドロの帰国命令を拒絶させることに成功しました。

ドン・ペドロは、ジョゼ・ボニファシオを宰相に任命し、ブラジルの初代内閣を組閣しました。1822年6月には憲法制定のための議会を招集し、ブラジルの独立を宣言します。

再度の帰還命令

9月7日、サンパウロを巡回していたドン・ペドロはイピランガ川付近で父、ジョアン六世からの手紙を受け取りました。父からの手紙には、「ポルトガルに帰国するように」という1月と同じ命令がしたためられていました。父の手紙と合わせて、ジョゼ・ボニファシオ妻マリア・レオポルジーナの手紙も届けられました。ジョゼ・ボニファシオの手紙には、ポルトガルと袂を分かつようにと勧めが書かれていました。

また、妻マリア・レオポルジーナの手紙には、ジョゼ・ボニファシオの意見を支援する旨の内容と、以下の言葉が書かれていました。
「機は熟しています。機を逃さず掴みなさい。さもなくば、腐ります。」
(O pomo está maduro, colhe-o já, senão apodrece.)

独立か死か!

再度の帰還命令を受けたドン・ペドロは剣を天にかざして次の有名なセリフを吐いたといわれています。

「独立か死か!(Independência ou Morte!)」

これが有名な「イピランガの叫び(Grito de Ipiranga)」です。このイピランガの叫びがあったとされる9月7日が後日、独立記念日に定められました。

その翌月1882年10月12日、ドン・ペドロはブラジル初代皇帝、ペドロ一世に即位し、これをもってブラジル帝国が成立しました。なお、ブラジル帝政時代は、1889年に共和制が始まることで、わずか7年間で終焉します。

映画『独立か死か!』でのドン・ペドロのセリフ

As cortes de Portugal querem nos escravizar!
ポルトガル議会は我々を隷属させようとしている!

De hoje em diante, as nossas relações estão cortadas.
今後、ブラジルとポルトガルの関係は終わったと思え。

Eu nada mais quero do governo de Lisboa.
余はリスボン政府から最早なにも期待はすまい。

Nenhum laço nos une mais.
我らを結ぶきずなはもはや存在しない。

Pelo meu sangue, pela minha honra e pelo meu Deus,
juro promover a independência do Brasil.
我が血潮、我が名誉、そして我が神に誓い、
ブラジルの独立を推進する。

Independência ou morte!
独立か死だ!

「独立か死か!」で有名なイピランガの叫びは、ブラジル国歌の歌詞にも登場します。

ブラジル国歌とその歴史
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