思い通りになることなど無いと割り切ると楽になるかも

ラジオパーソナリティーでもある高原剛一郎牧師が話していた次のエピソードが今でも記憶に残っていて、たまに思い出すことがあります。

世の中は私のために存在しているのか

実は私はマンション住まいなんですが、かつて同じマンションに苦手な隣人が住んでいたんです。一組の夫婦なんですが、挨拶しても返事をしてくれないんですね。お辞儀をしてもお辞儀を返してくれません。はっきりと分かることばで「おはようございます。」「こんばんわ」という風に挨拶しても、完全無視をして二人で何事もなかったかのように会話をするんですね。実に感じの悪い夫婦でした。彼らと会うとなんだか不愉快になるんです。しかし、よく考えてみたら、彼らは私に挨拶を返さねばならないという義務がないんです。返事をするのも、無視するのも彼らの自由であるはずです。ところが、私は無視されると、とても立腹してる。なぜでしょうか。それは、「私の近くにいる人は、私が気分良く生きるために、協力すべきだ。世の中は私が気持ち良く生活するために、存在しているのだ」という誤った前提に立っていたからです。世界は、私が幸せになるために存在しているのではありません。私のためにあの人、この人、この世の中が存在しているのではありません。
高原剛一郎氏による講和全文

期待するから失望する

高原氏の話を聞いて、折に触れて「期待と失望」について考えるようになりました。辞書によると、「失望」とは「期待」が外れてがっかりすること、また、その結果、希望を持てなくなること、と定義されています。

自分の周りに居る人々が、自分が期待している通りに行動すべきだと考えている場合、その通りにならなかった場合には、期待が裏切られて失望することになります。

例えば、子供の教育を例に考えてみます。父親が子供に良かれと思って、私立の良い学校に入学させ、習い事も色々とさせたにも関わらず、子供は親の期待などはわれ関せずに、学校をサボって遊んでばかりいたとします。

この場合、父親は「高いお金を出して、お前の為を思ってこんなに考えているのに、何故お父さんの気持ちを踏みにじるようなことをするんだ?」と失望することでしょう。しかし、「お前の為を思って」子供に期待していたというのは、本当に子供の為を思っていたのか、立ち止まって考える価値があります。

心の奥底を探ってみると、「子供が私立の良い学校で通っている優等生のお父さんだ」と周囲の人に褒められたい、認められたい気持ちがあるかもしれないし、「子供のために自分の時間を犠牲にして尽くす子供想いのお父さん」を演じて自己陶酔していたのかもしれません。

他人の為を思ってやっているつもりが、心の奥で自分の為になると考えてやっていないか、誰かに期待を掛けるときは立ち止まって考えてみてもいいかもしれません。失望や憤りは、自分の思う通りに人が動かない、物事が進まない場合に沸き起こる感情ですが、「そもそも本当に自分の思い通りにできるものなどはこの世には無い」と割り切ることができれば、問題が発生しても余計なストレスを感じることなく冷静に対処できるようになります。周囲の人の行動にイライラすることがよくある方は、是非、試してみてください。