誰かを批判したくなった時に思い出す言葉

一連のベッキーの不倫騒動に関するニュースを見ていて、日本ではなぜ他人の色恋沙汰でここまで騒げるのかという疑問を禁じえませんでした。

今回の騒動に関しては、「ベッキーが悪い」、「川谷が悪い」、「LINEを流出した川谷の妻が悪い」という色々な評価があるようです。事情を細かく調べたら、三者それぞれに言い分があるだろうし、きれいに白と黒を分けるのは難しそうです。

いずれにしろ、個人的な意見としては、背景をよく知りもしない他人が、誰かの色恋沙汰を「評価する」というのはあまり好ましいことではないと思います。

ベッキー騒動に限らず、頼まれもしないのに人のことを批判・評価する評論家は身の回りに溢れています。「○○さんの息子さん、40歳にもなって両親と一緒に暮らしているらしいわよ。良い年した大人がどうかとおもうわよね。」とか、「お隣の○○さんは、料理を滅多にしないらしくて、子供にカップラーメンばかり食べさせてるんだって。」とか。

こういう話、ぼくはあまり好きではないです。なぜなら、人の生き方というのはある一面だけから判断するにはあまりにも複雑に入り組んでいるからです。人それぞれの事情があるので、一概には言い切れないのではないかと思うのです。

評論家は、自分の中に「こうすべきだ」というモノサシを持っていてそれを押し付けてきます。モノサシのかたちや大きさは人によって異なるのに、「あなたもそう思うでしょ」と鼻息荒くして共感を求められても、嫌になるんです。

偉そうなことを言ってますが、ぼくも誰かを批判したい気持ちがもたげることがあります。その時に良く思い出す聖書の一節があるんです。この一節、わりと好きなんです。

さて、イエスはオリーブ山に戻られましたが、翌朝早く、また宮にお出かけになりました。たちまち人々が押しかけ、黒山の人だかりです。イエスはゆっくり腰を下ろし、話し始められました。その最中に、ユダヤ人の指導者やパリサイ人が、寄ってたかって、一人の女を引っ立ててきます。彼らは、あっけにとられて見つめる人々の目の前に、女を突き出しました。

「先生。この女を見てください。不倫の現場でつかまったんですよ。モーセの法律では、こういう不届き者は石で打ち殺すことになってますが、どうしたものでしょう。」

こう言ったのは、何かことばじりをとらえて、訴えてやろうという魂胆があったからです。ところがイエスは、体をかがめ、指で地面に何か書いておられるだけです。けれども、彼らは引き下がりません。あくまで質問を続けます。そこで、イエスは、ゆっくり体を起こし、「わかりました。この女を石で打ち殺しなさい。しかしいいですか。最初に石を投げるのは、今まで、一度も、罪を犯したことのない者ですよ」と言われました。

そして、すぐにまた体をかがめ、地面に何か書きつけられました。すると、ユダヤ人の指導者もパリサイ人も、ばつが悪そうに、年長者から順に一人去り、二人去りして、とうとうイエスと女だけが、群衆の前に取り残されました。

イエスは体を起こし、女に言われました。「はて、あなたを訴えた人たちはどこにいますか。罰する人は一人もいなかったのですか。」

「はい、先生。」

「そうですか。わたしもあなたを罰しません。さあ、行きなさい。もう二度と罪を犯してはいけませんよ。

(ヨハネによる福音書第8章)

過ちを犯した人に必要なのは批判や評論ではなく、赦しなんですよね。赦されたひとは過ちをバネに前に進めますが、批判や評論は、人を社会から排除するだけです。

メル・ギブソン監督のパッションより

TVシリーズの「The Bible」より