捏造されたブラジル独立「イピランガの叫び」

9月7日はブラジル独立記念日です。ブラジル独立と言えば、ペドロ一世が、「独立か死か!」と叫んだと言われる「イピランガの叫び(O Grito do Ipiranga)」が有名です。このイピランガの叫びは、ブラジル国歌の歌詞にも謳われています。

イピランガの叫びを描いた、ペドロ・アメリコ(Pedro Américo)作の「独立か死か(Independência ou Morte)」は、ブラジルで最も有名な絵画の一つです。この有名な絵画が描かれたのは、ブラジル独立(1822年9月7日)から66年後のことでした。ジャーナリストのロウレンティーノ・ゴメスによると、ドン・ペドロ一世の息子であるドン・ペドロ二世が、共和制への期待が高まる中、危機に瀕した君主制の成り立ちを記念するためにペドロ・アメリコに描かせたものでした。そのような歴史的な背景があるためか、絵に描かれるイピランガの叫びは、実際の史実を脚色したものであることが分かっています。

ドン・ペドロ一世は「独立か死か」と叫んだのか

結論としては、「ノー」です。ペドロ・アメリコの絵では、ドン・ペドロ一世は立派な馬に乗っていますが、彼が長距離を移動してきた事実を考えると、実際には馬ではなく雌ラバに乗っていたものと考えられています。また、絵の中では軍隊の美しいユニフォームを着ていますが、実際にはもっとラフな格好であったと考えられています。さらに、絵に描かれている儀仗兵は、実際には近隣の農場の人々であったと考えられています。ペドロ・アメリコにより叙事的な場面として描かれているイピランガの叫びは、実際には牧歌的で日常的な出来事だったと考えられています。さらに、絵の右側に描かれている威厳のある軍隊は、独立のドラゴン(Dragões da Independência)という別名で呼ばれる近衛騎兵の第一連隊(1º Regimento de Cavalaria de Guardas)ですが、イピランガの叫びの当時はまだ存在しませんでした。

激しい腹痛に襲われていたドン・ペドロ一世

イピランガの叫びが行われたとされる1822年9月7日、当時23歳だったドン・ペドロ一世は、激しい腹痛にもだえ苦しんでいました。彼は何度もラバから降りて、茂みの中で腹を下していました。イピランガ川(riacho Ipiranga)に到着する前日にサントスで食べたものが腐っていた、または飲料水が汚染されていたものと考えられています。ペドロ一世に付き添っていた副官であるマヌエル・マルコンデス・デ・オリヴェイラ・メロ大佐は、婉曲的な表現でペドロ一世が陥っていた苦境を証言しています。
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ペドロ・アメリコ作の「独立か死か」は盗作だった?

「独立か死か」は色々と脚色がなされていますが、この作品自体が、盗作であったという議論があります。「独立か死か」は、フランス人作家のMessonierが描いたナポレオンの「フリートラントの戦い」に構図がそっくりなのです。しかも、Messonierが描いた時期(1875年)の方がペドロ・アメリコの書いた時期(1888年)よりも古いのです。
二作品がどれだけ似ているか興味ある方はウィキペディアのページをご覧ください。

ブラジル独立の代償

当時、リオデジャネイロからポルトガルのリスボンまでの航海は2ヵ月間かかりました。従って、1822年9月7日に行われたイピランガの叫びがポルトガルに到達したのは11月頃であったと考えられています。ポルトガルは直ちに軍隊を送り、ブラジルの独立を阻止しようとしました。

ポルトガル王のジョアン四世と、その息子であるドン・ペドロ一世との間の“話し合い”の結果、ブラジルは血を流すことなく独立を勝ち取ったとされていますが、実際にはブラジル軍とポルトガル軍の衝突により、約5,000人の死者が出ています。ポルトガル軍の進駐は翌1823年11月まで続きました。

ポルトガルは1825年になって漸くブラジルの独立を認めています。この時、ブラジルは賠償金として2百万ポンドをポルトガルに支払っています。

3分で分かるブラジル独立の歴史
9月7日はブラジルの独立記念日です。ちょうど良い機会なので、ブラジル独立の歴史を3分程度でわかるようにまとめてみました。 ポルトガル王室の遷都とポルトガル本国の荒廃 1807年、ポルトガル女王と摂政(後の国王ジョアン六世)は、ナポレオン皇帝の支配...