最初の熱帯ヨーロッパ、カーボベルデ諸島

アフリカのセネガルから西に500kmほどの場所にあるカーボベルデ共和国は、火山活動により形成された10の島と5つの小島(無人島)からなる国です。ポルトガル人により発見され、四世紀もの間ポルトガル領としての歴史を刻みましたが、1975年にはポルトガルから独立しています。カーボベルデの歴史を調べてみると、色々と興味深い事実が浮かび上がってきます。

ヨーロッパ人が初めて熱帯に築いた都市、リベイラグランデ

カーボベルデで最大の島、サンチアゴ島には人口の約50%が集中しています。ポルトガル人によって発見された時にはカーボベルデ諸島は無人島でした。1462年、ポルトガル人はこの地にリベイラグランデという都市を築きました。リベイラグランデは、ヨーロッパ人が熱帯地方に築いた初めての都市となりました。

現在は「シダージベーリャ(旧市街)」と名前を変えており、その歴史ある町並みはユネスコの世界遺産に登録されています。

カーボベルデ諸島は主に2つの事業で発展しました。

①ヨーロッパと新大陸(アメリカ)、アフリカを結ぶ航海の中継補給地点
②アフリカの黒人奴隷貿易の市場

このほかに、1494年にはカーボベルデ諸島は有名なトルデシーリャス条約決定の基準となったことでも知られています。

カーボベルデの場所

カーボベルデ諸島の発見

カーボベルデ諸島の発見者は定かではないですが、一説には1456年にベネチア商人のカダモスト(Alvise de Cadamosto)によって発見されたと言われています。彼がエンリケ航海王子の命令によりアフリカ沿岸を航海していた時に嵐にあい、漂着したのがカーボベルデ諸島だったのです。別の説によると、航海士のゴメス(Diogo Gomes)とノリ(António da Noli)が同じ頃に発見したのだとする説もあります。

カーボベルデの概要

カーボベルデ(Cabo Verde)という名前は「緑の岬」という意味があり、セネガルにある同名の半島の名前に由来しています。首都はプライア(海岸)という名前で、人口は52万人(2015年)です。ブラジルで最も人口の少ない州であるホライマ州とほぼ同じ人口で、沖縄県の3分の1程度です。

リスボンからサンビセンテ島に直行便(ポルトガル航空)が出ており、筆者が調べたところ所要4時間、料金は往復5万円弱でした。

面積は合計4,033 km²で、沖縄県の約2倍の大きさです。公用語はポルトガル語ですが、日常的にはポルトガル語をベースとした言語であるクレオル語(Crioulo)という言葉が話されています。

住民の約7割がクレオルと呼ばれる白人と黒人の混血です。イメージとしては、ブラジルのサルバドールに近いのかもしれません。

主な産業は、バナナ、サトウキビ、熱帯果実、豆、イモ、マンジョッカ芋などの栽培です。観光業も重要な産業で、特にサル島(Ilha do Sal)、ボアビスタ島(Ilha Boa Vista)が人気です。

海岸低地は砂漠上の乾燥した土地が多く、周期的に干ばつと飢饉が襲います。食糧の85%は輸入に頼っています。このような厳しい食料事情のなか、カーボベルデ人は、カーボベルデ諸島よりも外国に住んでいる人の人数の方が多くカーボベルデに住む人々は、アメリカ合衆国などの外国に住む家族からの経済的援助に頼っています。この悲惨な状況は、ユダヤ人になぞらえて、「カーボベルデ人のディアスポラ」と呼ばれています。

海賊とイギリス人、フランス人の襲撃

奴隷貿易で繁栄し、地理的にも重要な場所にあったカーボベルデ諸島は、何度も乗っ取りの危機に遭いました。まず1541年に海賊に襲われ、1585年にはイギリス人ドレークに、1712年にはフランス人から襲われました。襲撃の結果、町は荒廃し、奴隷貿易の衰退と歩調を合わせてカーボベルデ諸島の経済も衰退しました。

カーボベルデの独立運動

ポルトガルは、1951年にカーボベルデを植民地からポルトガルの州のひとつに格上げして、独立機運の高まっていたカーボベルデをなだめようとしました。しかし、懐柔策もむなしく、1956年にギニアビサウ共和国出身のアミルカル・カブラルがカーボベルデと協力して、「ギニアビサウ・カーボベルデ独立アフリカ党(Partido Africano para a Independência da Guiné-Bissau e Cabo Verde –PAIGC)」を結成し、2カ国の独立を求める運動が勢力を強めていきました。

PAIGC党は、1960年ギニアの首都コナクリに拠点を設け、ポルトガルに対する武装解放運動を開始しました。1972年までにPAIGCはギニアの大部分を解放することに成功しました。解放したエリアは、PAIGC党の指導の下、社会的・経済的な再編が実施されました。その勢いのまま、1973年9月にはギニアビサウ共和国の独立が宣言されました。

ギニアビサウとの統一を望んでいたカーボベルデでしたが、ポルトガルの反対にあったため、1975年7月5日にカーボベルデ単独でポルトガルから独立することになりました。

1980年にギニアビサウでクーデターが起こると、カーボベルデはPAIGCを脱退し、「カーボベルデ独立アフリカ党(Partido Africano para a Independência de Cabo Verde-PAICV)を結成しました。その後、PAICV党の一党独裁は1990年まで続きましたが、ペレイラ大統領の独裁への批判が高まり、91年には初めて複数政党による直接選挙が行われるようになりました。