ポルトガル天下分け目の大合戦!アルジュバロータの戦い

ポルトガルの黄金期である大航海時代を切り拓いたジョアン1世は、アビス王朝と呼ばれる新王朝を築きました。日本では徳川家康が関ケ原の合戦と大坂の陣で天下を手中に収めたように、ジョアン1世もアビス王朝を拓く際に隣国カスティーリャとの間で、2つの重要な戦争を経験しています。

関ケ原の合戦に当たるのが、「リスボン攻城戦(cerco de Lisboa)」そして、大坂の陣に当たるのが「アルジュバロータの戦い(Batalha de Aljubarrota)」と勝手に関連づけてみました。この記事では、この2つの合戦が起こった経緯とその内容についてできるだけ簡単にご紹介します。

ポルトガル独立存続の危機

ポルトガルのブルゴーニュ王朝最後の王であるフェルナンド1世が1383年に病死すると、その唯一の子女であるベアトリス王女がその後継者となるはずでした。しかし、これには一つの問題がありました。このベアトリス王女は、フェルナンド1世が死去した同じ年に、ポルトガルの敵国で、隣国のカスティーリャの王、フアン1世と結婚していたのです。ベアトリスが女王になるということは、その夫であるカスティーリャ王が実質的にポルトガルを支配できるということになります。

ポルトガル国民にしてみれば、せっかく240年前にカスティーリャから独立できたのに、ベアトリスが女王になることを認めれば、再びカスティーリャの支配下に陥ることになりかねないのです。そのため、ポルトガル国民は自国の独立の危機を招くことになるベアトリス女王の誕生を歓迎しませんでした。

祖国を売った悪女レオノール

そもそもこのような困難な状況を招いたのは、ベアトリスの母親のレオノール・テレスと呼ばれる「悪女」に原因がありました。レオノールは、隣国カスティーリャの王にまだ11歳という幼い自らの娘を輿入れさせることにより、自分は娘の摂政となり、フェルナンド1世亡き後もポルトガルの政治権力を掌握しようとしました。

ベアトリス王女と隣国カスティーリャの王の婚姻に当たり、両国が締結した条約は、ポルトガルの独立を危うくさせるようなものでした。この婚姻に際して、暗躍したのがカスティーリャのアンデイロ伯爵という人でした。このアンデイロ伯爵というのは、実はレオノール・テレスの愛人で、レオノールからポルトガルに領地をもらって、ポルトガル議会でのさばるようになりました。

このような行動から、レオノールには「売国奴」「姦淫者」というレッテルが貼られるようになりました。これに関しては、以下の記事で詳しく書いています。

ポルトガルの悪名高い美女、レオノール・テレス
ポルトガルは、1143年にポルトを中心とする地域がカスティーリャ(スペイン)から独立して成立した国です。ポルトガルに最初にできた王朝はブルゴーニュ王朝と呼ばれていました。王朝名がフランス風なのは、創始者の父親がフランス人だったことに関係しています。こ...

ポルトガルの内乱とジョアン1世

フェルナンド1世の死とベアトリス女王の誕生により、ポルトガルは2つのグループに分かれました。大貴族の多くは摂政レオノールを支持し、中小貴族や民衆はアビス騎士団の団長で、フェルナンド1世の母親違いの弟であるジョアン1世を支持しました。

ジョアン1世

ジョアン1世はレオノール派の勢力をそぐため、まずはレオノールの側近でかつ愛人のアンデイロ伯爵を宮中で殺害しました。殺害の大義名分は元王妃レオノールと姦淫を働いた国家への反逆者を処罰することでした。

元王妃のレオノールはベアトリスの摂政でしたが、その後ろで政治的にポルトガル議会を操っていたのは、このアンデイロ伯爵でした。彼が殺害されたことにより、リスボンの政治状況はジョアン1世に有利となり、レオノールはリスボンに留まっていることが難しくなったため、サンタレンに逃亡することになりました。

窮地に陥ったレオノールが次にしたのは、娘婿であるカスティーリャ王、フアン1世への支援要請でした。ベアトリスとフアン1世の結婚の際にかわした条約に基づき、フェルナンド1世の死後、ポルトガルの王位継承権はベアトリスの手に入るはずでした。しかし、このままでは、王位継承権はジョアン1世の手中に落ちそうな事態になっていました。

レオノール元王妃は、自身の政治生命維持のため、ポルトガルに狼(カスティーリャ軍)を招き入れたのです。

ポルトガル版、関ケ原の合戦(リスボン攻城戦)

レオノールの支援要請を受けたフアン1世は、1384年1月にリスボン討伐軍を編成してリスボンを包囲しました。ジョアン1世率いるポルトガル軍は、強大なカスティーリャ軍を前に危うく落城しかけるところまで追い込まれます。ジョアン1世が「もはやこれまで」と思った時に、幸運の女神はジョアン1世に微笑みました。カスティーリャ軍の陣営でペストが発生し、次々と死亡者が出たため、戦どころではなくなり撤退せざるを得なくなったのです。ポルトガルは疫病のおかげで九死に一生を得ることができたのです。

リスボン攻城軍を追い返し、国を救ったジョアン1世の声望はいやが上にも高まり、この翌年1385年5月にポルトガル議会は正式にジョアン1世を国王に選出しました。

ポルトガル版、大坂の陣(アルジュバロータの戦い)

ジョアン1世がポルトガル王に即位したことにより、ブルゴーニュ王家は断絶し、新王朝であるアビス王朝が誕生しました。しかし、その基盤はまだ盤石とは言えませんでした。カスティーリャのフアン1世は、ポルトガル併合をまだ諦めていなかったからです。フアン1世は、再び軍隊を率いてポルトガルに侵略してきました。

ポルトガル各地でいくつもの合戦が行われたのですが、最も有名なのは1385年8月に行われた「アルジュバロータの戦い(Batalha de Aljubarrota)」です。この戦いでの勝利がジョアン1世の新王朝を盤石なものにしました。

正確な記録は残っていないものの、アルジュバロータの戦いにおいてカスティーリャの軍勢はおよそ3万人だったのに対して、ポルトガル軍は約7千人と4分の1以下の小勢でした。

この戦いでは、ジョアン1世が信頼する将軍ヌーノ・アルバレス・ペレイラ(Nuno Álvares Pereira)が活躍しました。この時、ポルトガル軍を率いたヌーノ将軍は弱冠25歳でした。ポルトガル王のジョアン1世は28歳です。ついでながら、このとき敵軍のカスティーリャ王は26歳、その新妻ベアトリスは12歳でした。

1385年8月13日、ヌーノ・アルバレス・ペレイラは両側が小川に囲まれた小高い丘の上に陣営を構えました。ジョアン1世は、ヌーノ将軍の後方に陣を構えました。前衛のヌーノ将軍の正面には急な坂があり天然の要害になっていました。カスティーリャ軍が正面から責めた場合、甚大な損害が出ることは火を見るよりも明らかでした。また、丘の両側は川が流れているので、側面から責めることも困難でした。

カスティーリャ軍の斥候の調べによると、ポルトガル軍の搦め手は坂の傾斜が緩やかであり、前方から攻めるよりも戦い易いことがわかりました。この報告を聞いたフアン1世は搦め手から攻めるべく、ポルトガル軍の陣営がある丘を大きく迂回しました。実はこれこそがポルトガル軍の狙いだったのです。

カスティーリャ軍が迂回を始めたのを確認したポルトガル軍は前衛部隊を3kmほど後方に移動させました。後方に陣を移動させたポルトガル軍は、即席の堀を作り、堀の上を落ち葉で覆って落とし穴を作りました。ここにヌーノ将軍は600名の騎兵隊を従え前衛を受け持ちました。ジョアン1世は騎兵隊と石弓隊が700名、歩兵2,000名を率いていました。その両翼には、同盟国イングランドから借り受けた弓隊が固めていました。

対するカスティーリャ軍は50台の射石砲、1500名の騎兵が四列になり丘の横幅いっぱいに隊列を組んでいました。狭い丘の上だったので、カスティーリャ軍は軍勢の多さを活かすことができませんでした。

カスティーリャ軍が丘の後方に迂回し、ポルトガル軍への攻撃を開始した時には既に夕方近くになっていました。真夏(8月)の暑い中、カスティーリャの兵士達は昼から夕方にかけて丘の後方に移動し、休憩なしでそのまま戦いの火蓋が切られたのです。カスティーリャ軍には相当な疲労がたまっていたことが容易に想像つきます。重たい鎧を着て、真夏の午後ずっと歩き回った後に戦争することを想像するだけで嫌になります。

Batalha de Aljubarrota

まず、カスティーリャ軍は、ポルトガルの正面部隊を崩しにかかりましたが、正面突破したのも束の間、カスティーリャの先陣はポルトガルの両翼からの攻撃を受けることになりました。

ポルトガル軍は、まるで蟻地獄のように横幅の狭い丘に侵入してくるカスティーリャ軍を挟み撃ちにして、戦力を少しずつすり潰していきました。そのまま、カスティーリャ軍の犠牲者は拡大し、形勢を逆転すること叶わず逃亡するものもあり、戦争は開始から1時間程度でポルトガル軍の大勝利に終わったのです。

有利な地形に陣取ったポルトガル軍に無謀にも突っ込んでしまったことがカスティーリャ軍の主な敗因と言えます。フアン1世が徳川家康のように慎重な男であったなら、ポルトガルを兵糧攻めにして落とせばよかったのではないかと思います。

アルジュバロータの戦いの勝利によって、ジョアン1世は生まれたてのアビス王朝を盤石なものにしました。戦後、ジョアン1世はイングランドのランカスター公の娘フィリパと結婚し、イングランドとの同盟を確固たるものとしました。二人の間に生まれたエンリケ(航海王子)を中心にして、その後、大航海時代の幕が降ろされることになるのです。