アフリカ人奴隷はカシャッサで売買されていた

砂糖産業は、ブラジル植民時代の初期における主要な産業でした。砂糖製造は重労働であったため、多くのアフリカ人奴隷がブラジルに連れてこられました。そして、このアフリカ人奴隷をあがなう際に、カシャッサが公式の通貨のひとつとして使用されていました。

アフリカに花開いたカシャッサ市場

カシャッサがブラジルで誕生する前、インディオはマンジョッカ(キャッサバ)を原料とした酒であるカウイン(cauim)を製造しており、アフリカ人はヤシから製造した酒を飲んでいました。しかし、アルコール度数は当時20度程度が上限だったそうです。

ヨーロッパからアフリカに来た開拓者たちが、自国の製品の流通市場をアフリカにつくり、しばらくすると、アフリカでヤシの酒の代わりにカシャッサが飲まれるようになりました。次第に、カシャッサは奴隷売買の際の通貨としての地位を確立していくようになりました。

ポルトガルによるカシャッサ製造禁止令

カシャッサは、ブラジルの自国消費のみならず、海外でも消費されるようになっていましたが、ポルトガルは自国で製造したブドウ由来の酒、バガセイラ(bagaceira)をブラジル市場で販売したいと考えていたため、1649年、ポルトガル王のジョアン四世は、ブラジルにおけるカシャッサの製造の禁止令を出しました。

しかし、ポルトガルによる禁止令にもかかわらず、ブラジルの人々はカシャッサの消費をやめませんでした。その理由は、ポルトガルから大西洋を渡ってやってくるバガセイラよりも、カシャッサの方は値段がかなり安かったという点にありました。

カシャッサが流通する闇市場

カシャッサがすでにブラジル市場に深く浸透してしまっている状況で、ポルトガルのカシャッサ製造禁止令は全くもって意味を持ちませんでした。その後、ポルトガルは植民地であるアンゴラへのカシャッサの輸出についても禁止します。しかし、これによりカシャッサの密輸闇市場ができてしまい、一部の者がカシャッサの流通を独占するようになりました。結局、ポルトガルのカシャッサ製造禁止令は、カシャッサの流通量を減らすことには貢献せず、富の一極集中を招いただけで終わりました。

奴隷の売買に使われたカシャッサ

当時、アンゴラには年間30万リットルものカシャッサが輸出されていました。これは、アンゴラが輸入する酒類の80%を占めていました。残りの20%は、ポルトガルの製造したバガセイラでした。1710年から1830年にブラジルに連れてこられたアフリカ人奴隷のうち、約25%はカシャッサと交換されたと言われています。バイーアで生産されていたタバコとの交換も合わせると、17世紀にはおよそ2百万人の奴隷がカシャッサとタバコと交換されて、ブラジルに連れてこられています。

奴隷の生活に無くてはならなかったカシャッサ

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カシャッサは、大西洋を長時間かけてわたってくるアフリカ人が、飢餓感を紛らわせ、奴隷として異国に行く悲しみを紛らわせるために利用されました。ブラジルに到着してからも、日々の辛さを紛らわせるための道具としてカシャッサが利用されています。カシャッサは、強制労働を行う奴隷たちの「ガソリン」としての利用価値があったのです。その後、砂糖産業が衰退し、ミナスジェライスで金脈が発見されると、農園で働いていた奴隷はミナスジェライスに連れて行かれ、奴隷とともにミナスジェライスに持ち込まれたカシャッサはミ同地の産業のひとつとして定着しました。

反抗心に火をつけるカシャッサ

カシャッサは、奴隷に労働を強制するための道具として使用された一方で、奴隷の反抗心に対して火をつける道具にもなりえました。奴隷制度に反対する集会等の飲み物として利用された他、ブラジル独立のきっかけとなったと言われる「ミナスの陰謀」では、ポルトガルのバガセイラではなく、ブラジル産のカシャッサを集会で飲むことによって、ポルトガルへの反抗心を明示しています。

逃亡奴隷たちの通貨として機能したカシャッサ

農場主の元から逃亡した奴隷たちは、キロンボ(quilombo)という共同体を形成しました。奴隷たちはカシャッサの製造技術を身に着けていたので、キロンボ内でもカシャッサが製造されていました。カシャッサは、キロンボ内の人間関係を維持していくのに欠かせないものとなりました。キロンボでは、カシャッサが「貨幣」としての役割を担い、闇市場での食品などの購入にカシャッサが利用されました。

こうしてみると、カシャッサの歴史にはアフリカ人が非常に密接に関連していることが分かり興味深いです。
O Brasil engarrafado